モジモジ君のブログ。みたいな。

はてなダイアリーから引っ越してきました。

愚民とは、殺す相手の顔を見ない者のことである

実に腹立たしいと思うことは、選挙以降に政権が行うことについてまったく責任を負う気がない奴らを見ることだ。その選択はその時点での「それぞれの個人の考えだから、それでよいではないか」といい、その正当性は永遠に疑問に付されることのないものとして、批判は選んだ後の政権だけが受けるものとして、そのようなものとして投票を行った連中の、その無責任な態度を見るに、腹の底から腹が立つ。
小泉政権が選ばれたことで、確実に殺されていく人がいるだろう。障害者自立支援法案はどうなるだろう。あの法律が施行されれば、すぐにでも、今の生活が根底からひっくり返される重度障害者が日本中にいるのだ。精神障害者たちも、カウンセリングに要する費用のために医療の利用を控えねばならず、しなくてもいい自殺に追い込まれていく人が出てくるだろう。それ以外にもいくらでも問題はある。イラクでは、今もアメリカ軍による殺戮が続いている。その殺戮をいちはやく信任した小泉は、またしてもその不明を追及されることもなく、アメリカの虐殺を支持し続けるだろう。そして、そのために、今日もイラクで、人が死んでいく。他にも無数の人たちを思い浮かべることができる。小泉政権の体現する新自由主義的政策の元で、自己責任の名の下に、たくさんの人が力尽きて倒れるだろう。

この政府を選んだ人々は、その選択がもたらすそれらの結果を見届ける責任がある。殺すな、とは言わない。せめて、政府が殺す人々を、自分が殺す人々として、真剣に見届けよ。殺すなら、そいつの顔を見て殺せ。


もちろん、人はあらゆる分野の専門家にはなれない。僕もなれない。間違うことはあるだろう。しかし、だからなんだというのか。間違うことは仕方ないから責任を問うな、というなら、甘えるな、といいたい。自らの間違いのために人を傷つけることになるとしたら、そのことに自責の念を感じなければならない。間違うことはわれわれの必然である。しかし、それは傷つけることを正当化しない。私たちが間違った結果として傷つけられる誰かの姿を、自分が傷つけた者の姿として目を見開いて最後まで見届けよ。

投票するとは、支持した政権およびその思想に、賛成するということである。それを全力で理解し、全力で擁護する責任を、引き受けなければならない。全力で自分の選択を擁護し、そして議論の結果として自分の選択が間違いであったことを認める可能性まで含めて、コミット「し続ける」ことが責任である。自分の選択の結果として殺される人々を見つめながら、自分の選択の意味を真剣に考えなければならない。ホントにあれでよかったのか、と。野党に投票した僕でさえ、それくらいのことは考える。あいつらに入れて本当によかったのか、と。与党にあれほどの強大な権力を与えた連中は、これからその政権がなにをやるのかについて、真剣に不安を感じ、その責任を自らの責任として、想像していなければならないはずだ。

それが主権者ということである。投票箱の向こうで起こることについて、見もしなければ責任を取るつもりもない、そんな奴らを、僕は断固として「愚民」と呼ぶ。