モジモジ君のブログ。みたいな。

はてなダイアリーから引っ越してきました。

ファシズムとの長くなるかもしれない戦いに向けて

誰一人、小泉首相の叫ぶ「改革」の中身を説得的に説明できるものがいない中で、それでも「改革」を連呼するだけで自民党は勝利を手にした。ただの296議席ではない。多様な派閥がよくも悪くも鬩ぎあっていた中曽根時代の300議席とも違い、徹底して反対勢力を追い出しイエスマンで固めた小泉党の296議席である。そして、そのような強大な権力を手にした政権の本質は、白紙委任状である。そして、誤った選択は、選択した人ではなく、それを選択しなかった人をまず真っ先に餌食にしていく。既にギリギリの生活の中で悲鳴をあげている人たちがいる。僕はそのことがやりきれないが、もう止められない。


小泉の熱狂的な支持者たちに欠けていたものは、分からないことを分からないと認める態度であり、分からないことを分からないままに認めさせようとする態度への批判精神である。政策の中身を説明しようとする合理的態度は「分かりにくい!」と一刀両断にされ、選挙運動としての稚拙さとして記号化されていった。他方で中身のないフレーズを連呼するだけの態度は「分かりやすい!」ものであり、選挙運動として正当にして強力な、つまりは賢いやり方として記号化されていった。そこで言われている選挙運動のテクニックとは、選ぶ我々が本質的にバカであることを前提したテクニックであるにも関わらず、そのテクニックに長けた者を嬉々として支持していく。実にグロテスクな光景であった。


合理主義は、非合理主義に道を譲った。そのように総括することを、傲慢と言うなら言えばよいと思う。しかし、仮にそういいたいならば、小泉の政策について一つでいいから合理的な説明を述べてみせよ。さらに、そのような合理的説明を当の小泉が絶対に言わない理由をきちんと説明してみせよ。

このように述べるのもむなしい限りではある。主張に対する、その合理的な説明の重要さをまったく理解しないからこその小泉支持なのであるから、僕がこのように反問して見せても、その意味さえ理解しないだろう。

しかし、嘆いているばかりでもしょうがない。幸い、小泉改革で次に殺されるのは僕ではない。その意味で、悲しいのは僕ではないし、痛いのも僕ではない。嘆いてはいるが、嘆く以上のことではない。次々殺されていく人々を横目に見ながら、次の戦いに漕ぎ出そう。