モジモジ君のブログ。みたいな。

はてなダイアリーから引っ越してきました。

どうしようもなく差別者であることと向き合うこと

あえて「実感のない理念」と呼ばれるものを振りかざしてみる。

意識されない差別性

1つの仮想的なストーリー。
自閉症などの社会性の障害がある人が、実親の死後、頼る相手も有効な支援もなく、生活を持ち崩してホームレスになり、病気になって担ぎ込まれる。治療を行って退院しても、そこに有効な支援があるわけでもないから、当然同じことを繰り返して何度でも病気になって担ぎこまれることになる。担ぎ込まれる病院の医師が、このホームレスの診療を行う。過酷な労働条件におかれている研修医が、その無駄さ加減に慨嘆したくなるのも分からないではない。しかし、次のように述べることは何を意味するのか。

なんだか、悲しくなってしまった。
私が一生懸命払っている税金は、彼のような人の医療費に消えていくのかもと考えた。
彼は、日陰の人生を歩んできたかわいそうな人と言えなくもないけれど、でもね、
一生懸命働いている自分が出している税金がここに行くのかと思うとものすごく複雑な気持ちになった。
こういう矛盾ってどうしたらいいのだろう。
睡眠時間3時間弱でこういう患者さんを診ているのって・・・私がしたかったことなのか?
朝食を買うついでに見た朝日はまぶしすぎて直視できなかった。
寝不足だとドライアイがひどくなるもので。
医療現場には考えたら動けなくなる現実が普通に横たわっている。
開けてはいけない、考えてはいけない・・・パンドラの箱なのかもしれない。
http://d.hatena.ne.jp/Surgeon/20050821に引用されているものを孫引き)

ご覧のように、この研修医が矛盾として捉えているのは、「こういう患者を診ること」である。その背景にある社会構造への想像力は皆無である。問題はここにある。


なぜこのホームレスの方のようなことが起こるのかと言われれば、「病気になったら支援するが、そうなるまでは完全放置」というわが国の社会保障の基本方針があるからである。明らかなことは、病気になったときだけ支援しても、繰り返し病気になるだけで無駄が多いということだ。ここで考えるべきは、病気になる前の段階での支援がなぜないのか、ということなのだ。自閉症などの障害を持った人を継続的に支援する活動があれば、その人はホームレスになることもなく、就労さえ可能かもしれない。そのようなより上流での社会福祉的介入があれば、その医師の目の前の矛盾とやらも解消するはずである。

その研修医は「なぜここに来る前にどうにかできないのか、病気になる前に支援は得られないのか」と慨嘆すればよかったのである。

もちろん、研修医氏がそこまでの洞察をもてていないことは致し方ない面もあるだろう。人は何もかもについて知識が得られるわけではないからだ。しかし、そのような状況をいくら考慮に入れるとしても、この研修医の発言はどうしようもなく差別的である。なぜなら、その発言は「より上流での支援があり得ること」をまったく無視し、現状ある日本の社会保障への問題意識を欠いたがゆえに、そのような社会のありように加担してしまっているからである。患者として医師の前にやってくること、それ自体を矛盾として名指しし、その背後にある社会構造の矛盾を隠蔽することに、気づいてはいなくとも、わざとではなくとも、とにかく加担してしまっているからである。

このような発言を批判する人が、あまり間を置かずに現れたことは、この研修医の方にとってはむしろ幸いだったのである。私たちは、気づかないうちに誰かを踏みつけにしているものである。

この研修医の差別は僕自身の差別である

なぜ僕がこの研修医氏の発言を決して見逃すべきでないと思うのか、ブログを消しまでした研修医の内心をも思いやることなく、このように再度引っ張ってきて引用さえするのか。それは、僕自身がこの研修医氏と同様の発言を幾度となく行ってきたからである。僕は女性差別者であったし、障害者差別者であったし、ホームレス差別者であったし、他にも数え切れないほど、この社会が構造化している差別を内面に作り上げてきた。そのようにして20年あまりを育った。20歳を過ぎてからの10年余りの人生は、そのように自らの内部にある差別を自覚化して抉りだす戦いでもあったと思う。これからもそうだろう。僕は知らず知らずのうちに内面化された差別意識に基づいて、それがそうしたものだと気づきさえせずに、行動するだろう。これはどうしようもないことである。しかし、絶対に忘れてはならないのは、どうしようもないことだとしても、される側にとっては耐え難い痛みを伴うものである、ということである。私は知らなかったのだ、理解が足りなかったのだ、などということを免罪符にするには、それはあまりにも痛いものである。あまりにも多くの問題がこの社会にはあるし、そしてその社会に生きてきた僕は内面化してしまっている。しかも、それを自力で自覚化することは困難なのだ。

期せずして、僕は他者の悲鳴を教師として学ぶしかなかった。その人が悲鳴を上げるのは、別に僕を啓蒙しようという意図からではなく、本当に痛いから悲鳴をあげるのであり、その結果僕がその痛みについてほんの少し理解ができたとしても、その痛みへの報いには到底ならないのだ。僕は悲鳴を上げさせ続けるし、悲鳴から学び続けるし、しかし悲鳴を上げさせていること、痛みをもたらしていることへ報いることは到底できない。であるから、誰かが怒りの声をあげること、怒りに限らず感情の高ぶりとともにもたらされるメッセージに対して、少なくともその怒りや感情の高ぶりそのものを「余計なもの」として非難することだけは絶対にしまいと心に決めている。*1余計な痛みをもたらしているのはむしろ僕らの側であることがほとんどなのだから。*2さらに言えば、悲鳴さえ上がらなかったならば、僕はその差別性に気づくことなく通り過ぎたかも知れないのである。悲鳴を上げる側は、何度悲鳴を上げても聞かれないために、もはや声を出しつかれて差別を甘受してしまうことは決して珍しくない。そのことに、一度くらいは慄然とするべきではないかと思う。


他人に悲鳴をあげさせることによってしか学ぶことができない。そのような悲しい構造を自覚することからしか始まらないが、どうしようもないのではあるが、それでもやりきれない思いはある。だからこそ、そのように意識されざる差別構造を僕たち自身の中に作り出すこの社会構造を、少しでもマシなものにできないか、と思う。一つの悲鳴も見逃すまい、と思う。社会科学者などやっているのも、教師などということをやっているのも、そのように思うからである。

僕は、ブログを消した研修医氏は、自らを恥じてそうしたのだと信じたい。そして、自らの内面化している差別性を自覚させられるという経験は、なかなか耐え難いものであると思うが、そういうことを耐え難いものとして感じられる人にはまだ希望があると思う。今まで歩んできた道を振り返り、自分が内面化しているあらゆるものを当然視せずに警戒しながら見つめ、せめてこれ以上加担はすまいと心に決めて、穴だらけの道のりをもう一度歩きはじめて欲しいと心から祈る。と同時に、その研修医の方へ向けるべき言葉は、自分も同じ差別者であることを告白し、共に差別に対する責任を背負ってやることではないのか。少なくとも、「小さなミス」などといって問題を矮小化することなどでは絶対にない。


とまぁ、思いのたけを吐いてみた。実のところ、僕自身はもう少ししたたかであり、人を踏みつけにし、傷つけることに対して、そのどうしようもなさゆえに開き直っている人間である。しかし、そういうどうしようもない僕でも思うことは、僕自身の持っているものも含めて、僕らの前に現れ出る差別性を肯定することだけは絶対にすまい、とは思う。

*1:その自戒さえ守れていないかもしれないといつも戦々恐々としているのであるが。

*2:いつも、とは言わない。実にくだらないことも確かにあると思う。しかし、僕は僕がくだらないと判断した怒りが、本当にくだらないものであったかどうかを確証することはできないから、そこにはさらに慎重さが必要であることは強調しておきたい。