モジモジ君のブログ。みたいな。

はてなダイアリーから引っ越してきました。

「女王の教室」がアツイ

ドラマの話なんてガラじゃないんだけどね。しかし、「女王の教室」にはまってる。もちろん最後まで見なければどう評価すべきか定まりはしないが、今までのところは僕的には大当たりの問題作。


公式サイト:http://www.ntv.co.jp/jyoou/
どらま・のーと:http://dramanote.seesaa.net/category/487399.html(あらすじの詳しいブログ)



公式サイトのBBSを見てると、だいたい(1)毒が強すぎ、はやく終われ、(2)真矢、結構正論吐いてるじゃん、(3)和美ちゃんがんばれ、ってとこか。


(2)の人、無理もないとは思うけど、それは危険だ。真矢が述べていることは真実を含んでいることもあるが、たいてい真矢がやっていることを正当化するかどうかとは何も関係がない。たとえば、第一話の次のシーン

翌日。
和美と由介は、給食当番も二人だけで担当する。
「私カレー配るから鍋持ってて。」
「お前が、」
二人が揉めていると、
「何してるの!早くしなさい。」と真矢に言われ、
焦った和美はカレーの鍋をひっくり返してしまう。
「すいません!!」
「給食室に行って残ったカレーを貰ってきます。」
「いけません!残ったカレーを配って。
 最初は私に。あとは成績順に。」と真矢。
「5人分ぐらいしかないんですけど・・・。」
「構いません。」

「俺絶対もらえないじゃん。」
「腹減って死にそうなんですけどー。」
生徒達が文句を言う。

「いくらでも食べ物があると思ってるほうが間違いなの。
 日本の食料自給率は、世界で124位です。
 もし、アメリカや中国といった農業大国が不作になって、
 輸入がストップしたら、飢え死にするしかないのよ、私達は。
 それを考えたら、食べ物を粗末になんか出来ないはずなのに、
 日本人は、大量に輸入した食糧の2割以上を無駄に
 捨ててるんです。
 好き嫌いばかり言って、平気で給食を残すあなた達のように。
 恨むんなら、ドジなこの二人と、テストでいい成績を取らなかった
 愚かな自分を恨むのね。
 何してるの。早くしないと給食の時間終わるわよ。」
阿久津の言うとおり、カレーを配る二人。
「それでは、いただきます。」
カレーをもらえなかった生徒たちに睨まれる和美と由介。
「何をしているの?早くこぼれたものを片付けなさい。」
と阿久津に言われる。
(どらま・のーと http://dramanote.seesaa.net/article/4794413.html より)

食料問題の現実の部分は確かに真実だ。しかし、エリート主義的分配ルールの根拠がいったいどこにあるのか。これは典型的なアジテーターの話し方で、いくつかの真実、それだけでなく「日本人は、大量に輸入した食糧の2割以上を無駄に捨ててるんです。好き嫌いばかり言って、平気で給食を残すあなた達のように。」という道徳的非難までをも支配に動員していく。辻褄なんか合っておらず、実際後になると「逆らった者は罰する」という、とんでもない恣意的な基準まで用いる始末。恐るべし、真矢。*1


(1)も無理もないとは思うが、しかし、このドラマの持っている毒は、決して非現実的なことではない。1つの見方は、この教室は全体主義国家であり、生徒たちはそこに住まう人々であり、阿久津真矢はその支配者であり、父兄たちは外圧であり、良心的教師たちは外国の無責任で夢見がちなことしか言えないダメ左翼である、というものだ。こう考えるとすごくはまる。実際、真矢のやっていることは、エリート主義と階級支配であり、分断統治であり、監視・密告システムであり、支配者が支配を遂行するために実際に使った極めて古典的な手法ばかりである。このドラマを見ていると、ことあるごとに『カムイ伝』を読んだ時の感覚を思い出す。既に述べたアジテーターとしてのテクニックもそうだ。この教室は私たちに想像しにくい(もちろん僕にとっても想像のしにくい)全体主義国家の現実を、私たちの身近な風景の中にはめ込んだ一種のデフォルメであり、リアルに感じられないものをリアルに想像するためのひとつの手法だと思う。おそらくは、このドラマの脚本家も、全体主義国家に生きることがどういうことであるのか、生身の体験として知っている世代ではあるまい。それでもそれを真剣に想像し、構成しようとしてるんじゃないか、と感じる。そして、そのように想像してみる必要があるのは、昨今の社会情勢と無関係ではないと思う。
もちろん、何をされたところで死ぬわけじゃなし、この教室における抑圧は1年後には終わると約束されているものでもあり、実際に存在した過酷な現実そのものなわけがない。しかし、抑圧が人と人の関係を破壊していく様は、まさに聞き及んでいるところの全体主義国家のそれなのだ。私たちがこの教室にいたとしたら、どのように振舞えるだろうか。


(3)に関連して、主人公・和美を裏切る人々の評判がすこぶる悪い。まぁ、私たちは和美の視点でこのドラマを見る以上、当たり前だ。しかし、全体主義国家を生きた「和美」は、かなり高い確率で死んでいる。そして、全体主義国家の支配を生き延びるということは、和美を裏切った「馬場ちゃん」や「えりか」になることであったということもまた、かなり高い確率での真実だ。私たちは、現実にこの教室のような社会が現れたとき、「馬場ちゃん」や「えりか」の立場に身をおく可能性が最も高いのだ、ということはどれだけ自覚されているのだろうか。と同時に、これら裏切る人々を生み出すのは、抑圧という状況それ自体なのであるのだ。和美と馬場ちゃんやえりかは、十分に友達でありえたし、実際友達であったのだ。しかし、抑圧の中で、友を裏切ることが自分が生き残るための手段となるとき、その脆さが露呈する。その原因が、裏切った一人一人のパーソナリティの弱さだけにあるものだ、と理解されてはならない。ほとんどの人間は、あれほどの抑圧の中では裏切り者としてしか生き残り得ない。私たちはもともと弱いものであるし、人間は弱いものであるからこそ、抑圧は許しがたいのだ。
それが分かっているから、和美は馬場ちゃんを責めないし、えりかの名前を言わなかったのではないか。敵は裏切った仲間ではなく、裏切る戦略を選べ、選べと誘惑する抑圧の構造それ自体であることを、この子はちゃんと見据えているのではないか。世間知らずのバカにしか見えないかもしれないが、僕には逆に、実に聡明で強い子だと思う。自分は同じような状況の中で、この小学6年生の少女のような勇気が持てるだろうか。聡明で、強くあろうとすることが、これほどまで高価な対価を要求される社会において、なおそのようにあろうとすることができるだろうか。
そして、このドラマを早く打ち切れ、と言う人たちに逆に問いたい。このような社会はもう二度とやってこない、ありえない、と無根拠にも信じているのだろうか、と。私たちは全体主義国家の支配の記憶をどのように伝えているのか。あの「馬場ちゃん」や「えりか」は私たちの姿であったし、未来においてもそうでありえるのだ、だからこそそのような社会を招いてはならないということをどれだけ真剣に考え、語っているか。


しかし、どういう決着をつけようというのか想像もつかん。少なくとも、こういうダークな雰囲気でドラマを展開させるだけでも視聴者から非難轟々出ているわけで、おそらくはバッドエンドにはならないとは想像する。さすがに9時台のテレビドラマでそこまでやるのは無理だろう。しかし、決着のつけかた次第では、とてつもない駄作になる可能性もまだまだある。油断はできないが、目も離せない。真矢の厳しい指導の理由が最終回で明らかになるらしいが、まさか、抑圧というものがどういうものなのか、それを教えようとした、とかいう理由だったらおもしろいけど。

*1:しかし、エンディングのムービーの、ドラマとはうってかわった明るい雰囲気は、天海祐希のイメージ対策なんだろうなぁ。つまりは、逆に「ドラマ本編では手加減しないで悪役まっしぐらでいきますよ」の宣言ということなんだろうか。