モジモジ君のブログ。みたいな。

はてなダイアリーから引っ越してきました。

神々の争いについて

 1日の日記にこんなことを書いた。

 あらゆるレベルで行われている実証のための努力を差し置いて、安易に「神々の争い」などと言うべきではありません。神々の争いとは、「24時間介護保障がなければ死ぬ」「ああどうぞ死んでください」という類の対立のことを言うのです。そのような場合には、私たちは暴力によってしかその対立を解消できないでしょう。ただし、幸運なことに、そのようなことを言う人は、そう多くはないわけで、僕らとすればそこに賭けることができるわけです。

 私たちは価値判断においてしばしば対立するけれども、それが「神々の争い」と表象されることについては以前からおかしいと思っている。


 価値判断は、規範命題と事実命題の組み合わせから引き出される。「人を殺したものは○○の刑に処す(規範)」+「Aを殺したのはBだ(事実)」によってBに刑罰を加えることができるし、「社会は人に生存権を保障しなければならない(規範)」+「この人は24時間介護がなければ死ぬ(事実)」から24時間介護保障を提供すべきだと主張することができる。そしてこの価値判断に反対するためには組み合わされている命題の少なくとも1つに反対しなければならず、そして反対するのはどの命題に対してであってもよいが、規範命題の方に反対しているケースはほとんど見たことがない。

 殺人罪への処罰については、刑の軽重については議論はあるものの、少なくとも殺人者に刑罰を加えること自体に反対している人は見かけない。24時間介護保障については言葉を濁す人はたくさんいるが、「どうぞ死んでください」という人もあまり見かけない。*1イラクで非道の限りを尽くしているアメリカの大統領・ブッシュJr.でさえ、巻き添えのイラク人犠牲者を悼んで見せている。規範命題に関して明確な反対を述べる人は、そうはいないのだ。


 各種死刑冤罪事件が問題になったのは、それが冤罪だったから=事実認識において誤りがあったからであり、これは事実命題に関する争点である。重度障害者に24時間介護が保障されないのは、では24時間介護が保障されない場合に彼らが実際にどのようにして生きていられるのかを具体的に示す責任を負うてないからであり、これはつまり、事実命題についての論点をそもそもスルーしているからである。

 ブッシュも同様である。彼は、フセインは短期的に危険な行為を実行しうる状況にあったし、ビンラディンと手を組んでいる可能性があったし、それを排除するための米軍の攻撃は最大限イラク民間人に配慮したものであるから、米軍の攻撃は正当化される、と言うのである。仕方のない攻撃だ、という話だ。まぁ、これについては、「何が何でも戦争反対」の人については規範命題について反対しているわけで、その論点も一応は存在することを認めよう。しかし、絶対反戦論者をとりあえず相手にしないとしても、事実命題に関して少しでも真面目に考えてみたならば、ブッシュの立場が支持し得ないことはあまりにも明白である。すなわち、フセイン大量破壊兵器もその短期間内での製造能力も発見されなかったし、フセインビンラディンのつながりを示す証拠は一切ない上に世俗主義者のフセイン原理主義者のビンラディンが手を組む可能性は低いことがさまざまな形で指摘されており、さらにはアメリカ軍がイラク攻撃において劣化ウラン弾を大量に使用したという紛れもない事実がある。そこに住む人々を長期にわたって苦しめ続ける兵器の使用が、そこに住む人々への配慮に欠けたものであるということも、わざわざ言うまでもないだろう。いずれも、アメリカの主張を支える事実命題に対する反証であるし、これを覆すだけの材料はどこにもない。


 われわれの周りの意見の対立というものは、大抵はまず事実命題に関する対立であり、規範命題に関する対立ではない。そして、事実命題に関する対立は、原理的に不可避の対立ではない。つまり、「神々の争い」ではない。もちろん、過去の歴史に関する問題においては、事実命題における対立を決着するための材料が消え去っていることもあり、事実命題においても「迷宮入り」してしまうことはある。しかし、そうでなければ、事実命題についての対立は科学的な論争によって決着しうるものであり、断じて「神々の争い」ではない。

 私たちの世界において意見の対立が解決しえないのは、1つには対立を解消するための議論に対して一方的に不誠実な態度をとる勢力がいるからであり、かつその勢力が実際上の権限行使を行いうる立場にいるからである。誰かが権限行使の責任者であることは論理的に避けられないから、原因はつまり、不誠実さにある、と言うべきだろう。


 この手の不誠実さはどこにでもあるし、政府の中にも外にもあるし、もちろん裁判所の中にもある。正義は実際に価値判断を下すものである、すなわち、実際に何をすべきかを命ずるものである。何をすべきかを命ずるその理由の適切さによって、正義は正義たりうるのである。断じて「誰がそれを命じたか」にはない。仮に裁判所が、「この四肢のまったく不自由な人物は24時間介護がなくても死にはしないし、ゆえにその介護保障は生存権保障という観点から判断しても不要である」との判断を下すならば、その人物が介護なしでいったい何をなしうるかを知る人は誰でも、裁判所の事実認識を批判しうる(裁判所の主張する事実命題を否定しうる)権威者たりうるのであって、私たちはそうした実際に誠実な議論に基づいて物を言いうる限りにおいて、法の外で正義を主張してかまわないし、むしろそれが望まれることさえあるのも当然なのである。

*1:全然、ではないところがやっかいなところではあるが、ひとまず措いておこう。