モジモジ君のブログ。みたいな。

はてなダイアリーから引っ越してきました。

再開と宿題その1

お久しぶりに再開しようと思います。いつからしようかなぁとは4月頃から思ってはいたのですが、これはこれで結構時間をとられるので先延ばしにしておりました。このブログについていろいろ問いかけてくださった方々に感謝します。今回ゆえあって以前のやり取りをいくつか見返していたのですが、よい機会だしこの際再開することにしました。一応答えておくべき宿題もかなり放置してありますしね。とりあえずそれをとっとと終わらせようかと思います。


http://alicia.zive.net/weblog/t-ohya/archives/2005_02.html


このアーカイブの中の23日、27日分の僕への言及について。とりあえずは27日分から。おおや氏は興味を失ったが故ではあるんだろうけど、正直、いくらなんでも読み方がいい加減すぎやしませんか、というのが僕の印象。でもまぁ、こういう誤解を受けうるのだ、ということを確認する意味では良かったかと思います。さほどウケのいい主張をしているともとても分かりやすく誤解の余地のないように書けているとも思わないので、ある程度はしょうがないでしょう。


ロールズ批判?

ロールズ批判が拙劣だってことですが、そもそもロールズ批判なんかしておりません。僕が批判しているのはbewaad氏流の社会契約論であり、「確率的に自分の生存権を保障してくれる可能性が高い」=低い確率では最低限の生活基盤を奪われた人が発生する」原理です。ゆえに、おおや氏が言う「格差原理があるのに最低限の生活基盤を奪われた人々というのが発生するかどうか」なんてのは疑問になりえません。

原初状態でいかなる合意を行なっていようがそれを破棄し、自らの生存基盤を確保しようとするだろう、だから原初状態論に意味はないというのである。/だがこれは規範の次元と事実の次元を混同した批判である。なるほど事実としてはmojimoji氏の主張するようなことが起きるであろう。私はそのことを認める。だが重要なのは、ロールズがここで、そのような行為は不正である、正義にかなっていないと主張し得る点にある。

もともと事実の次元での議論をしているのであって、むしろおおや氏がそれを勝手に規範的な議論だと勘違いしているというのが正しいかと。bewaad氏の主張は「○○のような社会原理に同意することは合理的選択でありえる」というもの。それに対して僕は「無知のヴェールというアイデア自体いけていないと思う」と述べました。これは、規範の正当性を事実レベルでの理論(合理的選択理論)によって基礎付けること自体が無意味だと思うからで、ある意味「規範の次元と事実の次元を混同するな」というのは僕が言いたかったことです。と同時に、離反可能性について指摘した。「規範の次元と事実の次元の混同を認めたとしても、bewaad氏は合理的に原理が選ばれる場面だけを考え、それが合理的に離反される場面を無視している」と批判したわけです。言い換えれば、合理的選択理論として一貫していない、と述べている。少し丁寧に書けば以下の通り。*1

  1. 社会契約が同意された状況で得られる各個人の利得u(1,i), (i \in \{ 1,\ldots,N \})が提示される。ここで社会契約に同意しないならu(0)を得る。同意するなら次のステップへ。
  2. 同意したなら、無知のヴェールを剥ぎ取る。その人は自分が個人j, (j \in \{ 1,\ldots,N \})であることを確認し、自分の受け取る利得u(1,j)を確認する。
  3. 社会契約に対して、離反するか受け入れるかを決定する。離反すればu(2)を得る。受け入れればu(1,j)を得る。

社会契約が同意されるためには最低でも \frac{\sum_{i \in N}^{i} s(1,i)}{N} > s(0)が必要で、離反されないためには s(1,j) > s(2)が成立しなければなりません。仮に合理的選択による正当化を認めるとしても、入り口の合理性だけ考えて離反する合理性を無視している議論はアドホックすぎる、というのが僕の批判の意味です。

捏造される神々の争い

しかもそれは自己破壊的である。ロールズ的な議論の有意味性を否定した場合にどうなるのかを考えてみよう。もちろんmojimoji氏は生存基盤を保障されていない人々の正義の主張を正当なものと考え、それにコミットすべきだと主張する。しかし問題は、例えばイラク戦争期のイラク人たちがおそらくそのような主張を行ない、mojimoji氏がそれに対する共感を感じるであろう一方で、その状態をまさに生じさせているアメリカ人たちも同様に「我々の生存基盤が保障されていないのだ」として自らの正義を主張していたという点にある。すなわち正義に関する「神々の争い」という状況が生じ、そしてそれを批判し得る視点(の一つ)はまさにmojimoji氏自身が壊してしまっている。いったいどうするつもりなのか。

どうするもこうするも、アメリカ人に向かって「お前たちは間違っているよ」と言う他にないでしょう。さほど苦労しなくても手にいれられる範囲で得られる知識を踏まえて、今現実に行われていることについての報道のいくつかを見た上で、「イラク人の主張が正しくて、アメリカ人の主張は間違っている」と言えない理由があるとは思えません。言えない、というのであれば、それはいくらなんでも物を知らなさ過ぎるから、今回の戦争について報道されていることを一通り復習してみることをオススメします。これはあくまでも情緒の問題ではなく、知性と知るための努力を誠実に行うかどうかの問題。

言えるがそれをアメリカ人に納得させることが不可能だ、と言うなら、それが不可能であるならば私たちが普遍的な正義に到達することは不可能だと断言しておきましょう。天動説と地動説を信じている者同士でも、共通の正義の原理を持つことはできる。しかし、共通の天文学理論を持つことはできないでしょう。同様に、規範の適用に関わる重大な事実について相反する信念を持っている者同士の間でも、共通の天文学理論を持つことは可能だろうけども、共通の正義の原理を見出すことはできないでしょう。

科学者の対話というのは、根拠と論理をもって相手を説得することによって成り立っている。ある仮説Aを信ずる科学者とその反対仮説¬Aを信ずる科学者がいるとき、彼らはそれぞれの信ずる仮説を支持する根拠(実験データ等々)を提示し、ぶつけあう。イラク人とアメリカ人の主張においても、同様にするしかない。その上で問う。知られている範囲でのイラクに関する調査や報道の一切を、覆すだけの事実をアメリカ人は提示することができるのか?劣化ウラン弾についての報道と検証の数々を見せられてなお、それに同意しないといえるだけの反証を彼らは示すことができるのか。そこが問題。

大事なことは、彼らに反証する気がなければならない、ということです。意固地になって、誰がなんといおうとアメリカは被害者であるとただ繰り返すだけの人間であるならばどうにもならない。しかし、そんなのは科学の世界にもいるのであって(UFO学者だのなんだの)、しかし、それでも確からしい科学的知識が論争を経て生き残ってきているのも否定しがたい事実なわけです。

さらに、全身性障害者の話を思い起こしましょう。全身性の脳性マヒ者が「24時間介護がなければ遠からず死ぬ」という事実は、それほど認識困難な事実ではないでしょう。ゆえに、「24時間介護がなければ死ぬ」とする主張と「そんなものなくても死にはしない」とする主張の対立は「神々の争い」ではありません。役人を刺殺した老人についても同様です。その老人がどのような生活をしていたかについては、引き合いに出された時点で詳細な設定はなかったから知らない。もちろん、いささか判断の微妙なケースもあるでしょうが、身寄りもなく、いくつか身体に故障を抱えた、現金収入も特筆すべき蓄えも持たない独居老人であったならば、とりあえず放置しておいても生きていけそうだとは思わないわけで。

あらゆるレベルで行われている実証のための努力を差し置いて、安易に「神々の争い」などと言うべきではありません。神々の争いとは、「24時間介護保障がなければ死ぬ」「ああどうぞ死んでください」という類の対立のことを言うのです。そのような場合には、私たちは暴力によってしかその対立を解消できないでしょう。ただし、幸運なことに、そのようなことを言う人は、そう多くはないわけで、僕らとすればそこに賭けることができるわけです。

言説の一般性の在り処

この点、mojimoji氏は正義の順位に関する合意は具体的に形成していけばよいという主張をしており、それがいかに合意形成のコストという問題を無視しているかという点についてはすでにbewaad氏の指摘されるところである。私としてはさらに「あなたはそういう主張をしないでしょう?」という mojimoji氏のレトリックは発言主体の個人的良心を議論にからめて属人的な要素を持ち込んでいるので言説の一般性を保証すべきアカデミズムの議論としては拙劣かつ卑怯なものであると思うわけで、もちろんmojimoji氏にはアカデミズムの枠内で議論しているつもりはないという反論が可能であり、私としてもそういうレトリックがレトリックとして有効であることを認めるわけではあるが、やっぱり「じゃあ大学出てけ」とも思う。またその議論は、実際にアメリカのように「自分たちこそ弱者なのだ」として我々が普通に考える弱者の主張を抑圧するために利用する勢力というのが実在していることを考えれば、話にならないほど愚劣だと評価せざるを得まい。

合意形成のコストを無視している、という点については、次のエントリ。


誰にとっての「歯止め」なのか
http://d.hatena.ne.jp/mojimoji/20050220#p2


で、「あなたはそういう主張はしないでしょう?」というレトリックについては、良心にも訴えることになるだろうけど、少なくとも僕の意図はそこにはない、と答えよう。たとえば、先のイラクとアメリカの話を考えてみる。イラク人とアメリカ人の言い分について、「イラク人の言い分が正しく、アメリカの言い分が間違っている」と言いえるかどうかは、知性の問題であって良心の問題ではない。私たちは、これまでの経緯について広く知られている事実だけに基づいてそれを主張することができる。

だから、「あなたはアメリカ人の言い分が正しいとはよもや思っていないでしょう?」と尋ねることには意味がある。思っていないのであれば、自分がそう考えるようになった根拠をアメリカ人にぶつけ、どちらかが意見を変えるまで意見を戦わせればいい。それはつまり、深刻な対立を神々の争いだとは考えず、適切な作法によって参入することでどちらかを説得しうる対立として扱うことを意味します。あるいは、おおや氏が、アメリカが正しいとまでは言わないまでも、どちらが正しいか分からないということを自分の考えとして述べられるのでしょうか。言うなら言ってみてもいいと思うけれど、それは僕なら自らの無能と無知を告白するようなものであり、とても恥ずかしいことだからしないし、おおや氏にせよそんなことはしないだろうと期待はしている。もちろん、僕の知りえていない知見を披露された上で、「当然にイラク人の主張が正しくアメリカ人の主張が間違っている」という僕の主張を覆される可能性もある。それは、おおやさんが実際にそのような主張を行い、覆してくれればいい。そうされれば、僕は見通しが甘すぎたということを認めてもいい。ただし、いずれの場合であるにせよ、「あなた自身がその主張を実際にするのか?」という質問には、単に良心に訴える以上の意味がある。信じてもいない意見を引き合いに出して、意見の対立のことごとくを「神々の争いである」などと言い立てるのは有害無益だからだ。

つまり、ある争点に関わる意見対立を「神々の争いである」と言い立てること自体が、言説としての一般性を欠いているわけです。「あなたはそういう主張をしないでしょう?」という確認は、それを証明するためになされているのです。*2

手続的正義?

つまり、mojimoji氏の批判は実はその(注・ロールズ的な原初状態からの演繹によって規範を正当化するような類の議論に対する)破壊的な側面において私の立場と一致している。違いはしかし、私がそこで生じ得る「神々の争い」に枠を嵌める(少なくとも各当事者の認識と理解において制約を加え得る)原理として「手続的正義」を一貫して提示している点にある。

そもそも、ロールズの議論の全体を無意味であると言ったつもりもないのだけれど、それは別にいい。とにもかくにも僕の主張とは、「神々の争い」に枠をはめる(少なくとも各当事者の認識と理解において制約を加えうる)原理として、フォーマルな法制度の手続を経ているかどうかだけを考慮する考え方に賛成しない、ということだ。じゃ、どうするのか。それを制約する原理は、科学的な討論においてそうであるように、事実に基づくことと論理的であることだけでいい。

と同時に、裁判所が事実に基づいていない、論理的ではないというならば、それを指摘して正義を主張していいし、第三者がそれを見て理性的に同意することも可能だ。これらがただちに「法の僭称」であったり、「語りの特権化」になったりするわけではない。たとえば、次のような殺人事件の判決について。

「全身三十数ヵ所の刺し傷、現場は血の海。障子にまで血しぶきが飛んでいる。死刑判決が下されたその事件の唯一の物証がズボンにあった数ヵ所の小さなこげ茶色のシミ。最初の鑑定では、血液だと鑑定できなかった。そこで、東大のエライ先生に鑑定を頼んで、O型だと判定してもらった(後に、大先生ではなく門下の大学院生が「見よう見まねで」鑑定をしていたのだとわかった)。
しかし、血液型うんぬん以前に、そんな状況でズボンに数ヵ所しか血の痕ができないのが不自然だとわからなかったのだろうか。被告が犯行当時着ていたとされた上着からは血液反応が出なかった。洗濯したから落ちた、というのが警察の説明で、裁判所はそれを信じた。
(小林和之『「おろかもの」の正義論』p.151)

このような場合に、「こんなんで死刑だなんておかしくないですか?」といわれれば、多分僕は同意する。それは「語りの特権化」なのか。このような死刑判決が下りて再審の可能性も当面ないとすれば、再審請求の運動の一つの手法として、民衆法廷を開くこともあったってかまわないと思う。とすれば、それはただちに「法の僭称」か。私たちが重視するのは、その裁判所がまともな事実認定と論理によって判決を下しているかどうかであり、そうではないという主張があるならば、その主張が根拠とするものにしたがって同意したりしなかったりするだろう。それがただちに「語りの特権化」「法の僭称」を意味すると決め付ける理由はない。*3

従ってグアンタナモ問題を指摘すれば私もそこでは正義が奪われており抵抗を非難し得ないことを(少なくとも私は非難しないということを)肯定せざるを得なかったわけであるが、その可能性は氏の拙劣な防御によって失われたわけである。

手続きにこだわっているのはおおや氏であって、僕ではない。それどころか、手続的正義さえ確保されていれば中身を問わないというスタンスに反対だ。簡潔に言おう。仮に法的に正しい手続きに基づいて行われたとしても、僕はグアンタナモで行われていることを非難するでしょう。弁護士もつかない、拘留理由の明確な提示もない、期限もない、拷問さえ行われる、そのような行為が行われないように報道陣が取材することさえ許さない、そのような拘留の仕方が仮に「合法」の手続きとして行われたとしても、僕はそれを「そんなものは正義と呼ぶに値しない」として批判するでしょう。そして、それで何か問題がありますか?

語りの特権性?

すなわち「裁き」とは必然的に個人の「過去物語り」の特権性を否定して中立性・客観性によるチェックにさらすことに他ならない。/従って、いわゆる「従軍慰安婦」の人々が金銭ではなく「裁き」を求めていると主張するならなおのこと、彼女たちの主張の特権性などを認めてはならない。ここでもmojimoji氏の主張は自己矛盾を引き起こしており、そしてそのことに無自覚な点に彼の限界を私は見るものである。

いったい誰が個人の過去物語りの「特権性」を主張したと言うのか。女性国際戦犯法廷を考えてみよう。彼女たちの証言は一切の検証を受けずに無批判に受容されているわけではない。実際、彼女たちへの危害の直接的・物理的実行者として訴えているわけではなく、そうした事態を引き起こした上官責任を問われているわけです。「あいつがやったから、あいつを有罪にしろ」という話ではまったくない。歴史学的に積み上げられた知見を土台にしながら、その被害の実情を把握するための材料として証言が採用されているだけであって、それ以上ではない。その上で、誰にその上官責任があるのかについては、当時の命令系統・組織や、日常的に誰がどのような意思決定を行っていたのかの考証に従い、あくまでも実証的に上官として知りえた(=責任のある)範囲を認定している。故人が防衛できないことをおおや氏はやたらこだわっているが、その人物がある場所にいてある地位にいて日常的にある種の意思決定を担っていたという事実を覆すことができない以上、責任の「有無」を覆すような証言はありえない、というのが判決要旨であるし、僕もそれに同意する。

さらに、24時間介助保障を要求する障害者の問題について言えば、彼らの主張に同意することはすなわち、障害者の自分語りに「特権性を認めた」ことになるのか。そんなわけはないと思うけど。



著作権うんぬんについては、少なくともご指摘の2月10日のエントリについては、問題ないと思ってる。20日のは明らかにアウトだろうから、修正しました。確かにかなりルーズにはなっていたと思うので、この点はご指摘感謝する。

*1:u(\cdot)は1価関数なのか2価関数なのか、どっちなんだ!とお叱りを受けるかもしれませんが、分かりやすさを優先してあえてこういう表記にしました。悪しからず。

*2:しかし、神々の争いだと言い募ることは、実に楽チンなことではあるね。その「神々の争い」と言われる何らかの対立点が、自分の切実な利害に直結している人たちは、そんな悠長なことを言ってはいられないのだけどね。

*3:死刑冤罪事件において、民衆法廷のような手法が取られないのには別の理由があるだろうし、女性国際戦犯法廷だって、あの問題について取り扱う上で、民衆法廷が最善の方法だったと決まっているわけでもない。ここで言いたいことは、少なくとも、それをやったからといって「法の僭称」などという一喝だけで片付けられるものでもないということだ。