モジモジ君のブログ。みたいな。

はてなダイアリーから引っ越してきました。

誰にとっての「歯止め」なのか

 道徳? 道徳!@note of vermilion
 http://d.hatena.ne.jp/jouno/20050218


の、以下の記述について。

最近、id:mojimojiさんの議論を見ていると、たしかに、かつて東浩紀がかたったような責任の無限の拡大という危険もふくめてあやういところがあるんじゃないかとも思える。レヴィナス的な無限責任や「正義論」、ベンヤミン的な神話的、法創造暴力の視点には、きちんと批判的な歯止めが必要なのではないか。

 これは僕も気になっている論点なのである。この場合の「歯止め」とは一体なんなのだろうか?


 ある問題が訴えられる。問題について仔細に調べ、必要な対策を検討し、それを実行に移す。さらに、以上の一連のプロセスがなされる間、その問題の存在によって困難に直面する人たちをひとまず救援するための活動も求められる。たとえば障害者の介護保障問題について言えば、そのために必要な様々な事柄を検討して政策を作らねばならない。そして、そうした政策を作り出す間、実際に彼らの生活を支えるための具体的な支援が必要とされる。これがつまり、正義のコストである。一つ一つの提案される問題について、同様に多くのコストが計上される。それが全体として一体どれほどの大きさなのかは知らない。しかし、とりあえずその大きさは既に決まっているはずだ。

 では、このコストを誰が負担するのか。問題の当事者は、既に、実際に負担している。それだけでなく、彼らは無限責任としてそのコストを引き受けねばならない。問題の解決のために何の努力もなされないとしても、問題の当事者だけは、その問題に「耐える」というやり方でコストを引き受ける。このコストは決してなくならない。必ず誰かが負担するし、当事者は確実に負担せざるをえず、逃がれることができない。


 ひとまず、「無限責任」という部分だけに焦点を当てる。無限責任に歯止めをかけることは、責任の総量を抑制することを意味しない。担われるべきコストの量は既に決まっており、考えるべきは、それを誰がどれだけ負担するか、ということでしかない。そして、どのような場合でも、問題の当事者たちはコストを担うしかなく、実際に担っている。無限責任として、それらのコストを担う。

 僕が言うような無限責任論は、とりあえず「当事者以外の人たち」の責任について議論していることを確認しておこう。あるいは僕が知る限りすべての無限責任論の主張は同様である。そして、担われるべき責任の総量を無限にしているわけではない。担われるべき責任の総量は所与である。当事者たちが無限責任として担っているものを、第三者も同様に無限責任として担うべきだ、そのようなルールの方がよいと主張しているだけである。言い換えれば、問題の当事者たちが担わされている責任に歯止めをかけよう、という主張である。

 その点がどうも曖昧にされているような気がするのだ。東浩紀氏がどのような主張をしているのか知らない。*1ただ、無限責任論を主張するとあちこちで「極端だ」と言われるのであるが、ではなぜ問題の当事者が無限責任として正義のコストを引き受けていることは極端ではないのだろうか。常々そう思っているのである。少なくとも、当事者が無限責任を担わされる一方で第三者は有限責任で「歯止めをかけねば」と主張されるべき根拠を示さなければならないはずだが、その根拠は説得力のある形で示されているのだろうか?僕はそうした議論を知らない。ゆえに、僕の議論にあやういところがあるのだとしても、「責任に歯止めを」という主張はそれ以上にあやういとしか僕には思えない。

 東氏の本を読んだら書いてあるのだろうか。他の誰でも構わないけれど、当事者と第三者の間の責任は非対称であってよいとするきちんとした議論はあるのか。それが知りたい。

*1:とりあえず、本は注文してみた。