モジモジ君のブログ。みたいな。

はてなダイアリーから引っ越してきました。

慎重さと大胆さ

 あえて民衆法廷について語ってみる@梶ピエールの備忘録。
 http://d.hatena.ne.jp/kaikaji/20050123/p1


 この原稿は2週間ほど寝かせてみたのだけど、自分の考えは基本的にこれで書けていると思うので、出してみようと思う。kaikajiさんは尊敬する先輩の一人であるけれども、一連の議論に対する見解にはやはり同意できないし、なぜ同意できないのか理解していただいた上で反対されているとも感じない。


 ラディカル・オーラル・ヒストリー(続)
 http://d.hatena.ne.jp/kaikaji/20050208/p1#seemore


で書かれていることにもうなづく部分も多いのだけど、どういうわけか、常々僕が疑問に感じている非対称な態度がここにも顔を出しているようにしか思えない。「法の外部に正義を想定しない」立場をとりながらその立場自体の正当化を他人任せにしていることは仕方ないとしても、なんでそうも懐疑がないのかが実に不思議なのだ。

 さて僕が「民衆法廷」に感じる疑問点は二つある。一つは運動の戦略に関するものである。主催者側にもいろいろな言い分があることはわかった(その言い分に対する批判はとりあえずおいておく)。しかし、もともとその開催の少なくとも大きな目的の一つが「パフォーマンス(従軍慰安婦問題についての関心を広く呼びかける)」であるのなら、いくら言い分があっても、それが自分達の狭い間でしか共有されず、広く人々の共感を得られないものであっては元も子もない、と思うのだ。要するに「法廷といいながら弁護士もつけてないんだって、笑っちゃうよね」という印象を広く一般の市民に与えるとしたら、やはりその時点で運動としては失敗ではないか、ということだ。

 この部分については二つの批判をしたい。第一に、民衆法廷は「パフォーマンス」としての役割もあっただろうが、第一義的な目的はそこにはない。第一の目的は、裁きなき補償に怒りの声を上げた従軍慰安婦とされた女性たちに応えることである。周知のように、国民基金なるやり方で、真相解明も何もなく、ただ金だけをばらまくというやり方に対して、(すべてのではない)多くの元従軍慰安婦たちが反対した。(すべてのではない)多くの人たちが、国民基金の受け取りを拒否したのである。たとえば、金英姫「「償い金」は何をもたらしているのか」(『インパクション』1997.11 通算105号)はフィリピンと韓国での取材に基づいて、次のような内容を報告している。裁きなき補償に反対の声が多くあがったこと、それでも生活の苦しさや(従軍慰安婦生活のために負った傷などの)医療費負担などのために受け取った人もいたこと、受け取った人と拒否した人の間で断裂が生まれたこと、受け取った人の中にも受け取ったことを肯定しきれない感情が生まれたこと、それでも個々の事情をお互いに理解しあい再び連帯を深めていったこと、そうした経緯があったというものである。運動の中に批判すべきものが何もあるはずがないとは主張しない。しかし、それでも、ニュアンスの違いはあれども裁きを求める声が(基金を受け取った人たちにおいてさえ)多く存在したことは確認されていい。その裁きが法解釈的に可能かどうかという議論はまず措く。しかし、彼女たちの多くが、「補償より裁き」なのか、「裁きを伴う補償」なのか、ニュアンスに違いはあれども、ともかく裁きを求めていたことは確認しておいていい。kaikajiさんはその点を知らないか、あるいは無視しているのであり、そうである以上「その発想の出発点」を何だと理解して共感したのか、僕にはよくわからない。「自らのよって立つ学問上・政治上の立場にかたくなに執着し、聞き取りを行う相手に敬意を払い、その言葉に耳を傾けるようとするのではなく、初めから用意された自分達のロジックによって解釈することだけしか考えない」のは一体誰のことなのか。

 第二に、運動の戦略=マーケティングは、商品のマーケティングとは異なる。これについては過去に「社会運動のマーケティングについての覚書」でも取り上げた。私たちの問題に対する倫理的責任を指し示そうとするあらゆる行為が、その巧拙を抜きにして意味のあるマーケティングとなりえる。さらに言えば、「法廷といいながら弁護士もつけてないんだって、笑っちゃうよね」と嘯く一般市民とやらは、民衆法廷が開催されたことで初めてこの問題からそっぽを向き始めたわけではなかろう。この開催とは無関係に最初から関心などもってはいなかったというのが大半だろう。だったら、その責は「法廷」にはない。運動の巧拙の話ができるとしても、「女性国際戦犯法廷は、現行のままでも効果はあったのであり、うまくやればもっと効果はあったかもしれない」というだけのことでしかないかもしれない。kaikajiさんが、そうではない、マイナスだったのだと主張したいのであるならば、その根拠を述べる責任があるだろう。

「法」の外部にある「正義」が優先する立場をみとめると、その「正義」が恣意的に運用される可能性があり、なおかつそれに対する現実的な歯止めが利かなくなる、という感じだろうか。

 「法」の外部にある「正義」を一切存在しないという立場を認めると、手続さえ踏めばいかなる内容であっても「正義」として通用させることに道を開き、それに対する批判の道を実質的に塞ぎ、現実的な歯止めがきかなくなることもある。そちらはどうでもよいのかどうか。

 繰り返し繰り返しこのブログで僕が言っていることの一つは、保守主義やそこにシンパシーを感じる立場からなされる議論の大半が陥っているところのこの非対称性である。おおや氏自身が「法において「人間」と認められるというのは、前述の通り権利主張をなし得る資格が認められることであって、その主張内容が実現されることを意味するのではない」と主張していることからも明らかなように、人として生きられる条件の基礎を奪われている人たちにとって、場合によっては法を尊重することは魅力的な選択でありえない。誤解のないように付言するが、法がそのようにあることを否定しない。そのようにある法を尊重すべき理由が、少なくともこのような人たちとってはない、と言うことを言いたいのだ。それでも法を尊重せよと言える根拠は法そのもの以外に存在しない。あるいは、「その方がマシだ」という、bewaadさんも口にした未だ証明されざる前提条件に頼らざるをえない。しかし、一体誰にとって「マシ」なのか。そこが明らかにされない限り、それは既に信仰だろう。
 ついでに言えば、信仰であること自体はある意味で仕方ない。しかし、信仰が信仰であると自覚されていないときに問題は生じる。その信仰に対して、生の条件を奪われている人たちが実際に反対するという「反証」を突きつけられていることに気付かないという形で。

 常々感じることは、奇妙なアンバランスさだ。大胆であることは、大胆であることに対する慎重さの欠如を意味することもあるだろう。しかし、同時に、慎重であることは、慎重であることに対する慎重さの欠如を意味することはなぜか忘れられている。慎重であることに対する慎重さの欠如とは、つまり「リスクを背負う人とそれを後ろから撃つ人」で述べたような文脈への配慮のなさである。このような文脈を知るとき、大胆であることも慎重であることも一種の賭けであるという意味で等価である。その意味で、私たちが模範としうる態度など存在しない。慎重でありさえすれば知的にであれどういう意味であれ、誠実であると評価しうるとか、そういいえる根拠はない。慎重さと大胆さは、等価である。等価であり、異なる役割を担いつつ協同すべきであるし、そうするしかない。大胆であるべきとは僕は言わない。しかし、慎重であるべきというのも同様に言えない。求められているのは、慎重さと協同しようとする大胆さであり、大胆さと協同しようとする慎重さである。僕は、慎重さそのものを否定したことはない。慎重さから慎重さに対する慎重さが欠如するとき、慎重さがはまりこむ罠に無自覚になるとき、それは放言左翼の大胆さと大して違いのないものになるということを言っている。

 ついでにいえば、実際になされている大胆さの方が、慎重さとの協同をハッキリと意識しているように僕は思う。「女性国際戦犯法廷」を批判して乗り越えていく必要性を感じているのは、誰よりもそれを主催し、その運営に関わった人たちであるように僕は感じる。そっぽを向いているのは、慎重さを謳う人たちの方だろう。少なくとも現状では。