モジモジ君のブログ。みたいな。

はてなダイアリーから引っ越してきました。

女性国際戦犯法廷の意義(より内在的な見地からの擁護)

 ここで疑問に思うのは、賠償金という実益に適う救済が既に閉ざされているという状態で、コミットしていく(理解して励ましていく)というのはよいのですが、「法廷」などといったものに被害者を引っ張り出すというのは、果たして被害者の救済になるのでしょうか、ということです。仮に被害者がもっと若ければ、たとえ賠償金など無くとも、ともかく決着を付け、自信を回復させて、以後の人生を実りあるものにするというだけでも救済たりうるかと思いますが、彼女らの年齢を考えると、証言も曖昧になるほど昔の話をあえて思い出させて証言台に立たせるなんてことが、とても救済になるとは思えないのです。

 賠償金については、実のところ「国民基金」から出るお金を受け取りさえすれば、とりあえずの補償を受け取ることはできます。だから、その面での救済が完全に閉ざされているわけではないのです。と同時に「裁きに何の意味があるのか」という批判はよくありますので、これについて述べたいと思います。


 実際女性国際戦犯法廷については「支援者の都合で被害者を引き回している」という悪評が根強いのは確かです。その中の1つとしてはらだ氏による「女性国際戦犯法廷の評価」などがあります。従軍慰安婦問題に真剣にコミットされている方の批判でもあり、それなりの重みがあるものですが、僕なりの検討をした上で、はらだ氏の批判に完全に同意しえないと考えています。一時期、はらだ氏のこの指摘を読んでVAWW-NET-JAPANの活動等々について、その意義について疑念をもったことはあります。ですから、今回のbotaroさんの疑問は、実は、僕としては理解できるものです。いろいろ勉強しながら見解を修正していまして、現在の結論から述べさせていただきますと、はらだ氏の指摘の部分での批判は当然に受けるべきだろうと思う面もありますが、問題の法廷開催自体を支援者の自己満足であるかのように言う批判はまったく当たらないと考えています。女性国際戦犯法廷の試みを支持する。以下、はらだ氏の見解に絡める形で僕の見解を申し上げます。


 第一に、「金よりも裁きを」求めた被害者は現に存在します。たとえば、在日の元「慰安婦」として初めて、日本政府の謝罪と補償を求める訴訟を起こした宋神道さんの場合。徐京植さんの記述によれば次のように書かれています。

「おれは謝ってもらいてえ。謝ってもらえればそれでいいんだ。金目当てじゃないことを分かってもらいてえ」。法廷での本人尋問の際にも、「いらない、金。謝れば一番いいんだ。謝って、二度と戦争をしないこと」とはっきり答えている。このような原告の意向を受け、提訴の際は金銭的補償の要求(金員請求)をせず、謝罪文の交付と国会における公式謝罪のみを請求した。原告の受けた被害はとうてい金銭に換算できるものではないという点に加えて、「差別のある日本社会のもとでは、原告に危害が加わる恐れがあること」も、金員請求をしなかった理由のひとつに挙げられている。しかし、裁判開始後、日本の法律では謝罪請求だけでは訴訟が成り立たないという裁判官の意見によって金員請求を追加したのである。
徐京植『半難民の位置から』p.21)

 以後の恥知らずな誹謗中傷、「どうせ金目当て」、というものが、少なくとも彼女には当てはまらないことは明白です。それはさておき、被害女性たちの間には、金よりも謝罪という意向がハッキリあるのです。誤解を招かないよう申し上げますが、もちろん、「すべての」被害女性がそうだ、というわけではありません。経済的補償を伴わねばダメだという人もいたかもしれないし、経済的補償もあれば助かるという人もいたかもしれないし、経済補償さえあればいいという人もいたかもしれないし、ただ、宋さんのように「いらない」と明言する人は確実にいました。*1

 実際に相当数の人が、国民基金の受け取りを拒否しています。はらだ氏のコメントの中には、<運動家が受け取るなと吹聴してまわった><受け取った被害女性を運動から仲間はずれにしたりした>という批判もあります。これが事実であるならば、事実に即して批判されるべきところだと思います。はらだ氏の言うようなことはありえて、かつ、事実ならば批判を真摯に受け止めるべきだろうとは思います。しかし、それをもって、補償よりも謝罪を求める運動における支援者と被害者の関係のすべてとすることはできないし、女性国際戦犯法廷を無意味と片付ける根拠にはなっていないと考えます。「もっとちゃんとやれ」という批判にはなるとしても、「やめろ」という批判にはならない、ということです。

 これについて考えるために、『世界』(だと思う)にいつだか掲載された記事について、記憶をたどって紹介します。*2 *3それによれば、事態はもう少し繊細な様相を見せていたようです。

 まず、国民基金受け取りについての批判は、被害女性たち同士の間でも生じていたことには留意すべきです。僕が読んだのはフィリピンだかインドネシアかを取材した記事でしたが、それによれば国民基金が運動に与えた波紋というのは、概ね以下のような展開をたどっています。まず、謝罪という明確な位置づけのない国民基金の意味するところに、多くの被害女性が怒った。しかし、貧困などの事情から受け取らざるをえないという判断をする被害女性もいた。実際に受け取った人もいた。それについて、被害女性たちの間でも対立が生じた。以後、それぞれの事情を勘案し、それぞれの選択を尊重しながら再合流しようという動きに変化。そのような経緯をたどったというのです。重要な点は、被害女性たちの間で相互批判が行われたということです。これを支援者があおったというなら問題なのですが、後に述べるように、少なくとも日本の運動家についてはそうではなかったようです。こうした文脈から見るとき、裁きを求める運動を支援者の自己満足でしかないもののように言うはらだ氏の議論も、やはり被害者たちの意志を汲んでいないといわざるを得ない。僕はそのように思います。

 もちろん、そこに支援者がどのように関わっていたのかについては、考えるべきです。受け取るべきでない、という支援者からの働きかけがなされたのであれば、それは批判されてしかるべきです。しかし、はらだ氏が公開しているやり取りの中で、「「償い金」の出所がどこであれ「償い金」を受けたいと希望するのを妨害する権利はわたしにもあなたにもありません。」とあり、これはVAWW-NET-JAPANの公式見解として出たものではありませんが、おそらく同様の見解だろうと思います。ゆえに、少なくとも日本からの支援者としては、受け取りについて口を出さず、あくまでも要求されている謝罪を求めていくことを運動の軸からはずさないでいます。僕はこの関わり方は正しいと思います。

 さらに、なぜ「裁き」が重要なのか、もう少し丁寧に確認しておく必要があるでしょう。外傷的症状をもたらした行為が「悪いことである」と指示され、それができるだけ広い場所で受け入れられること。心的外傷からの回復において、このことは重大な意味を持っているのです。不幸にしてそれが適わない場合でも、それを目指して共に歩んでくれる人がいることは必須の条件です。日本政府が謝罪しなくても、その日本の中に、謝罪をすべきだという動きがあって、これだけの批判を受けながらも民衆法廷を企画し実行してくれるだけの力がある、ということが何の意味もないとは僕には考えられません。被害女性たちの現在の生活があまりにも困難であるという状況を間近に見れば、裁きよりも経済補償という見解が出てくることも分からないではないのですが、しかし、実質的・経済的な補償を目指すべきであり謝罪は二の次という発想こそが、支援者の勝手な思い込みにとらわれているという危険性もあるのです。

*1:2005/02/11 23:22追記 「もう思い出したくもない」と思ったまま、名乗り出ることもなかった人たちもいただろうと思います。それも相当数。これも妄想だと切って捨てたい人はいるでしょうが、僕がそう考えるだけの材料はあると思います。

*2:その記事がどこのどういう記事かは失念してしまっていて、今捜索中です。読んだのは、つい1週間前なんだけど、出張先でたまたまそこにあった資料に載っていた記事だったので・・・。巻号を控え忘れ。

*3:2005/02/18追記 『インパクション』通算105号、1997.11所収の金英姫「「償い金」は何をもたらしているのか」でした。