モジモジ君のブログ。みたいな。

はてなダイアリーから引っ越してきました。

リスクを背負う人とそれを後ろから撃つ人

提起された問題に対して第三者がどのような態度を取るべきかについては、いろいろ難しい論点があるのは確かである。従軍慰安婦問題を問題化しようとする人たちの行動の多くについて、僕は惜しみなく支持を送りたいと思うが、それを慎重さを欠いた無思慮な態度、反対する人たちの意見に耳を傾けない意固地な態度として批判したがる人たちもいるだろう。僕は僕なりに覚悟を持ってこうした態度をとっているし、当然、それなりに理由のあることだとも思っている。


従軍慰安婦問題のような心的外傷をもたらす事件において、私たちがその問題の真偽について考えたいとき、どのような文脈を想定しておかねばならないのか。かなり長くなるが、ジュディス・L・ハーマン『心的外傷と回復』から引用する。(ただし、ハーマンが想定している外傷的経験は、女性の受ける暴力(家庭内暴力、性暴力)の他に、兵士が戦場で受ける経験も含まれるので、その点はご注意を。)

中立は倫理的にありえない

心的外傷を研究することは、自然界における人間の脆さはかなさを目をそむけずに見つめることであると同時に、人間の本性の中にある、悪をやってのける力と対決することである。心的外傷の研究は、身の毛のよだつような恐ろしい事件の証言者となることである。事件が天災すなわち「神の仕わざ」である時には、証言者は被害者に素直に同情することができる。しかし人災の場合には、証言者は被害者と迫害者との争いの中に巻き込まれる。この争いの中で中立的位置を維持することは倫理的に不可能である。第三者はどちらかの側に立つようにさせられてしまう。

加害者に加担することは易しい

加害者の側に立つことは楽であり、そうなってしまいがちである。加害者は、第三者に何も手出しをしないでくれというだけである。加害者は、見たい、話をききたい、そして悪事に口をつぐんでいたいという万人の持つ欲望に訴える。被害者のほうは、これに対して、第三者に苦痛の重荷を一緒に背負ってほしいという。被害者は行動を要求する。かかわることを、思い出すことを要求する。・・・・・

加害者は巧みに世論を味方につける

自分の犯した罪の説明責任 accountability を逃れようとして、加害者は忘れるのに役立つものならできる限り何でもやる。秘密を守らせ口をつぐませることは加害者の第一防衛線である。もし、秘密が曝かれたならば、加害者は被害者の証言の信憑性をあげつらう。もし被害者の口を完全につぐませられなかったならば、加害者は誰も彼女の言に耳を傾けないようにする。この目的のために、彼は堂々と論陣を張る。もっとも厚顔無恥な否認から始めてもっともエレガントでソフィスッティケーティッドな合理化までをずらりと揃える。残虐行為を終えるたびに聞かされる弁解の内容は聞く前から分っている──決してさようなことは起こっておりませぬ。彼女が自分で招いたことでございます、大げさなことを言っているのでございます、彼女が自分で招いたことでございます、いずれにせよ、過去を忘れて前向きになるべきです云々。加害者が権力者であればあるほど、現実に都合のよい名を与え、こうだと決め付ける主導権は大きく、その論法がすっかりまかり通ってしまう。

被害者の声は聴かれず、とだえがちになる

加害者の論法は、一対一で聞いていると、第三者は反論できなくなる。第三者を支えてくれる社会環境がなければ、第三者は目をそらしてしまおうとする誘惑に陥ってしまう。よしんば、被害者が社会の中で理想化されている、評価の高い者であってもこのことは変わらない。たとえばどの戦争であるとを問わず、勇士とされている兵士も含めて一般兵士たちは、誰も戦争の真実を知ろうとしないということを烈しく訴えてやまない。もともと価値が低いとされている者(すなわち女性、小児)である場合、生涯でもっとも外傷的な事件が発生した場所は社会が公式に是認している現実 socially validated reality の範囲外なのだと気がつくことがあってもふしぎではない。彼女の体験したところのものは口外してはいけないことなのだ。

研究者はこれらの傾向とたたかいつづけなければならない

心的外傷の研究には、この、被害者の発言の信頼性をくつがえし、被害者を人目につかないものにしようとする傾向性とのたえざる戦いとなる必然性がある。この分野の歴史をみれば、外傷後の障害を示す患者は尊重されケアされるべきものなのか、さげすまれるべきものなのか、ほんとうに被害者であって苦しんでいるのか詐病なのか、彼女らの語るところが真実なのか真実でないのか、真実でないとしたら空想の産物なのか悪意によってでっちあげたものなのか──という論争がいつも口角泡をとばして論じられている。心的外傷の現象を記録している文書の量は厖大であるが、論争の中心はいまだに<この現象は信頼に足りる、実際そのとおりのものなのかどうか>という基本的な問題にある。

研究者も白眼視されがちである

外傷後障害の患者だけでなく、その研究者も、その発言の信憑性がくり返し疑いの目を持たれている。外傷を受けた患者にあまりに長時間、あまりに耳を傾ける臨床家はしばしば同僚たちからいかがわしい眼でみられる。``接触感染,,を起こしているのではないかというのである。この分野に入り込んだあげくふつうだと思われている範囲をこえて深入りする調査者はしばしば専門家仲間から村八分にされる。

被害者にはたえざるサポートと連帯が必要である

外傷を受けたという現実を意識の中に保持しつづけるためには、被害者を肯定し受容し保護し、被害者と承認(``目撃者,,)とを連帯させるような社会の流れが必要である。個々の具体的な被害者にとって、そういう社会環境は友人、恋人、あるいは配偶者、家族との関係によって創り出される。より広い世間においては、そういう社会は弱者に発言させる政治的な動きによって創り出される。

研究は政治的立場から遊離できない

心的外傷の体系的・組織的な研究は、したがって、政治的運動からの支持の如何に大きく依存する。実に、そのような研究がやりとおせるか、公衆の中で論じることができるかどうかはすでに政治的問題である。戦争による心的外傷の研究は、青年が戦争の被害になることに異議をとなえる社会の流れにおいてはじめて正しいとされる。政治的運動が、通常の黙らせ否認させる社会的過程に逆らって立ち、患者と研究者との連帯を正しいものとすることができるだけの強さがあってはじめて、この分野において進歩がありうる。人権を擁護する強い政治的な動きが欠けているところでは<積極的に証言を維持するという過程>が<積極的に忘れてしまおうとする過程>に道をゆずってしまう。抑圧し、解離し、否認するという現象は、社会にも個人にも起こる。
(ジュディス・L・ハーマン『心的外傷と回復』pp.3-7)


私たちが真偽を判断する、あるいは判断できていないことを自覚することが大事ではもちろんある。しかし、その際に考えるべきことはたくさんあって、少なくとも、「真相を知らない」という私の認識上の事実から、「真相を知らないという態度」が当然に導かれる、というような単純なものではない、ということだけは言える。その理由については、先に示したハーマンの引用部だけでも十分かとも思うが、蛇足ながら僕なりに要点を整理してみる。


第一に、ハーマンが指摘するように、忘却する側に加担する方がはるかに楽であるから、私たちはそうしがちであるということをまず認めることである。無自覚である限り、この誘惑に抗うことは一層困難になる。


第二に、それは基本的に私たちの側の問題であって、被害者の側の問題ではないということである。私たちがリテラシーを口にしながら態度を決めかねている間も、(それが本当に被害者であるならば)その苦しみは間違いなく続いている。
私たちが、真相を知らないとき、真相は確定されていないのではない。私たちが真相を知らないという事実を踏まえつつも、その人が主張するとおりの被害者である可能性はある(そして、決して小さくない)。そして、そうであるならば、私たちがリテラシーを云々、あなたの言葉の信憑性が云々と言っていることが、その被害者にとってはどのようなものであるのかを想像しておかなければならない。


第三に、私たちが本当に真相を知らず、それを考えるために被害者から事情を聴取しなければならないとき、「ほんとかウソか分らない」という私にとっての事実に即した態度を取ることは、それ自体が暴力であることを知っておかねばならない。まず「あなたの言っていることは本当だと思う」とコミットした中で、被害者が語るにあたって守られているという感覚をもてるような状況を作らなければ、その人は語ること自体が不可能にさせられかねないということを知っている必要がある。「あなたの心中はお察ししますが、私は現場に居合わせていないからそれが本当かどうか分からないのです」などとバカ正直に言うことは、相手の口を積極的に閉ざそうとするのと同じであり、真相を探るためになされるふるまいからは最も遠いものである。


第四に、第三の点と関係するが、仮に私たちが被害者から聴取する場面に出くわさないとしても、誰かがそれをやらなければ私たちはリテラシー上必要な情報を得ることがそもそもできない。私たちが問題から距離を取りながら問題の真偽について慎重に考察することができるのは、「被害者を肯定し受容し保護し、被害者と承認(``目撃者,,)とを連帯させるような社会の流れ」を担う具体的な個人が必要である。言い換えれば、私たちがリテラシーを言うことができるためには、リテラシーを度外視してでも被害者(を名乗る人たち)にコミットする誰かが必要である。彼らがウソを言うかもしれない、そういう可能性まで含めて一緒に担う誰かがいなければ、仮にそれが本当であったとしても私たちは知ることができない、あるいは少なくとも著しく困難になる。被害者、当事者に「安易に」コミットすることを批判する人たちは、私たちが慎重に考えるためにこそ彼らを必要としているという事実を一体全体どれほど自覚しているのか。


以上のことは、被害者に寄り添う活動を担う人たちに対して批判してはならない、ということを意味しない。批判は具体的な事実に沿ってやればいいし、やるしかない。*1しかし、いずれにせよ、私たちが物を考えるためには、私たちよりははるかに大胆で危なっかしい人たちが必要であることを認めておかねばならないし、そうした冒険的なコミット全般を躊躇させるようなあらゆる発言に、僕は反対する。我々がなすべきことは、コミットをよりマシなものにしていくように、励まし、具体的なアイデアを提供する態度である。コミットの完全な空白より酷い状況は僕には想像が付かないからだ。

イクバール・アフマドは「批判的に考え、リスクを背負う」と言う。しかし、私たちの多くがやっていることは、批判的に考え、そして考え終わるまではリスクを背負わないという態度である。どこかで誰かがリスクを背負わなければ、事態は一向に良い方向に向かわない上に、私たちが考えをまとめるまで事態が待ってくれるわけでもない以上、ある人の批判的態度がどこまで批判的であるかをきちんと批判すべきことは当然あるとしても、リスクを背負うことそのものを尊重する態度が忘れ去られてはならない。

*1:しかし、こうした支援者への批判については、都合よくリテラシーを忘れ去るような風潮があることは指摘しておいていいと思う。