モジモジ君のブログ。みたいな。

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生きられる権利/生きられる幸運

 制度変更に要するコスト@bewaad.com
 http://bewaad.com/20050202.html


 「非正統なやり方でも、この範囲なら認めるよ、ここから先は認めないよ」とか、私たちの側から何を言うかに関係なく、彼らにとって生きるための条件が保障されない社会であるならば、彼らはあらゆる手段を使って抵抗する可能性があるでしょう。認めようと認めまいと、そういう状況があってやる覚悟さえされれば。仮に、「バスの運行停止くらいなら認めるよ」と言ったところで、そうした行為をしてなお彼らの生きられる条件を確保する努力が一向になされないならば、その行為はエスカレートしていくでしょうし、そのときには認める云々の話ではないということを思い知らされることになるでしょう。


「すべての人が、すべての問題に対して、このコストを負担する義務がある」とするルールであり、これに皆が同意するべきだ、ということだという意見については、少なくとも上記の各制度は、租税負担により運営され、それがどんなものであれ少なくとも受け付けることは拒否されていないわけですから、既にそのルールは実現されていると考えられるのではないでしょうか

 私たちがまず拘らねばならないことは、どこかで少しばかりのコストを負担しているかどうかではなく、その結果として人の生きられるための条件が実際に確保されているかどうかです。ご存知だと思いますが、ありとあらゆる種類の社会問題が山積しており、とてもではありませんが図書館の運営費用を課税を通じて少しばかり支えているというだけでは、とても問題の解決には追いついていないようです。「これ以上の負担は無理だ」とおっしゃるならば、私たちの社会は、正義などという贅沢な理想を実現するには貧しすぎることを意味するわけです。残念。仕方がないので、私たちはテロリズムと同居する社会に生き、しばしば発生する非正統の異議申し立ての犠牲者を弔いながら、非正統の異議申し立て者を実力で排除しながら、自分がそんな目に会わないという幸運を噛み締めながら生きていく他はない、ということです。言うまでもなく、「法の僭称けしからん」などと言える根拠はどこかに吹き飛んでしまっていますが。

 このような状況で、潜在的テロリストに対して言えることは、「残念ながら我々の社会では、君たちの生の基礎を確保するだけの資源が足りない。だから我慢してくれ」と「頼む」ことくらいでしょう。私たちの生存の基礎を奪うような行為に走ってはいけない、と言える根拠は存在しませんから、やれることは「頼む」ことくらいしかありません。この頼みを彼が聞き入れてくれるかどうかは分かりません。彼が、温和でいい人ならば、諦めて首をくくってくれるかもしれません。人によっては、私たちの生活の現実を見て、私たちの「これ以上は無理だ」という言い訳がどれほど本気かを見定めようとするかもしれません。そうした諸々の思考の末に、彼はこのまま消えていくよりは、誰かを道連れにしてやろうとするかもしれません。そして彼がそのように考えたとしても、私たちは彼を非難する資格を既に失っていることは言うまでもありません。彼がそのようには考えない幸運に賭けるしかありません。

 私たちの存在や生活やその他諸々の人として生きられるための条件を尊重せよと言えるためには(言うまでもなく、「殺すな」という要求さえ、その一部です)、相手に対してもその条件を確保しなければなりません。これを確保しない理由が私たちの怠慢によるのか、あるいは私たちの社会の経済的な貧しさ(資源の不足)によるのか、その理由はどちらでも同じことです。それが確保できていないとき、私たちは奪い合って生きるしかないのです。仮に、そうした奪い合いの社会を認めたくないならば、社会の別のあり方を求めるならば、なんとしてでも私たちの生きるための条件が「相互に」確保されるための方策を考えねばなりません。


 明らかに、そうした非正統なやり方を「認めてやる」とか「やらない」とかのレベルの話ではないんですよ。認めようと認めまいと、私たちと彼の間で人として生きられるための基盤確保が相互的に保障されているのでない限り、彼らはやる気になればやるし、やる気にならないならばその幸運に私たちは胸を撫で下ろすくらいのことしかできない、ということなわけです。

 まぁ、ならないかもしれませんけどね。そのままひっそりと首をくくってくれるかもしれませんから。それは私たちにとって、幸運であったというだけのことであり、彼らの生きられる条件を確保しなくても私たちの生きられる条件を尊重することが正義に適うから、ではありません。