モジモジ君のブログ。みたいな。

はてなダイアリーから引っ越してきました。

法が最小限の正義に満たないとき

 生存報告・再@おおやにき
 http://alicia.zive.net/weblog/t-ohya/000156.html


 法に外在する正義の話をし、そこに連なる話なので、法解釈論の枠内の話であるはずがないと思っていたのですが、誤解を招いたようですいません。女性国際戦犯法廷については、法解釈論の枠内での正当化を諦めたわけではないですが、まずは法解釈論に依拠しない擁護を試みているところですので、そこはお間違いなきように。

 以下、「生存報告・再」、および「生存報告」の一部についてコメントします。

 bewaadさん、botaroさんへのお返事はまたおいおい。(今回のレスも関連するとも思いますし。)

(2005/02/04追記 あちこち修正してます。論旨はかえていませんが。)

一つめについて

一つめ。「生存報告」に対するコメント欄で面と向かって言えるかというご指摘があって、まあ学問の真理性を標榜する身としては言いたくなくとも言わにゃならんでしょうがと思うわけだが、実はこれは虚偽問題である。というのは、「それを元従軍慰安婦だったというおばあちゃんに面と向かって言う」場面(正確にはそれが彼女たちに対する暴力的言辞となり得る場面)など存在しないから。何となれば彼女たちは法において十分に「人間」として扱われており、その人間性を否定されたことなどないからである。

 問題のおばあちゃんが主張することは、「実質的に人間として扱うこと」である。それを受け手の側で勝手に「(正統な法内での)法的に」人間として扱うことにすり替え、そしてその主張を棄却し、「実質的に人間として扱うこと」を拒否するなら、それは拒否しているのである。ゆえに、ここでのおおや氏の主張は端的にゴマカシに過ぎない。

法において「人間」と認められるというのは、前述の通り権利主張をなし得る資格が認められることであって、その主張内容が実現されることを意味するのではない。権利を主張しさえすれば証拠やその権利を定立する実定法と無縁に救済が与えられるべきだという主張は取り得ないし、おそらく mojimoji氏もそうは主張されないだろう。であるならばmojimoji氏の混乱は「法的人格として扱われる」ことと「救済が与えられる」ことのあいだにあると言うべきである。

 それは混乱ではない。むしろ確信的に、「法的人格として扱いさえすれば、救済が与えられなくてもそれでよい」という法的秩序そのものを破壊することを、僕は積極的に支持する。無論、その破壊の仕方には様々ある。収拾をつけることを予定しないヤケクソの暴力もありえるだろうが、それよりはソフトな秩序破壊の方を推奨するし、場合によっては手伝う。皇居や国会議事堂に火炎瓶を投げ込もうとしているのであれば、代わりに民衆法廷でもやる方を薦めるだろうとは思う。少なくとも、こんな場面で「人間として扱われているのだから」と主張して火に油を注ぐようなことはしない。

 既に周知のように、僕はおおやさんとは違って、法の外に正義を想定する。人びとが現実に生きている条件を基礎として。正統の法の枠組みの中で人びとの生きる条件を保障しえないのならば、法が尊重されなくても誰も文句は言えない。結果として、法の「僭称」だろうと「密猟」だろうと、「知ったことか」といわれて好き放題にされることになるだろう。そして、女性国際戦犯法廷は、仮に想定されうる最悪の内容の物だったとしても、「法の密猟として」僕は支持する。女性国際戦犯法廷が法の「僭称である」ならば、それが法の「僭称」でしかありえないという事実によって、むしろ現実の法の権威を失わしめるものだと理解する。

 「人間」と認められるということがその人の生にとって意味があるのは、その現実に人として生きられる条件を保障することを意味する場合だけである。その条件が要求されているならば、その要求内容が実現されるのでなければ無意味である。そして、法がそれを実質的に保障しないならば、法へ従う態度が捨てられるというだけのことだ。法的手続を通じてクレームする権利を認めるだけで事足れりとする見解に従う必然性はないし、実際に従わないだろう。つまり、そこでは「法を尊重せよ」などという非難は無意味である。だから「アゴラに出て行け」という主張に対しては、「やなこった」と言われるだけのことだし、少なくとも従軍慰安婦問題の関して言えば、僕は「やなこった」と言う方を支持する。(ただ、このような弁護は、女性国際戦犯法廷の主催者たちの本意ではないかもしれない、ということは注記しておく。)

二つめについて

 「二つめ」における第一の点については、単に自由の定義の問題でしかないので基本的にはどうでもよい。しかし、次の部分に示されているおおや氏の視座のあり方については指摘しておく価値がある。

例えば「障害者たちがバスの運行を妨害するという『暴挙』」について、アリかナシかで言えばアリだろう。これには二つの水準の意味がある。

私自身は一般的な遵法義務(法律が法律であるという理由で従うべきだという義務)を認めない立場であるので・・・、ある行為を行なうのは基本的に自由である。もちろんそれに対して我々や直接的に「被害」にあったバス運転手などがどのような対応を取るかも(この次元では)自由だとも言う。そのように結果が返ってくることを受容する気さえあれば、人間は何をするのも自由である・・・。

 物事の出発点が、あくまでも障害者によるバスの運行妨害にある。我々の生きる条件は確保されている一方で彼らの生きる条件が否定されているという事実がまず出発点であるのだから、「障害者たちがどのような暴挙に出たとしてもそれを甘受する気があるのであれば、乗車拒否だろうと何だろうと好きにせよ」、とまず言うべきなのだ。しかし、「こいつら絶対許さん」とか言うくらいだから、残念ながらその自覚は多分ないのかもしれない。


 第二の点について。

パフォーマティヴにはこういう形の「異議申し立て」が有効であり得ることは間違いない。もちろんこういう意味での有効性は周囲の社会状況等に依存するので可能性の問題としてではあり、またかえって反感を買ってしまう可能性などがないとは言えない両刃の剣だということにはなるだろうが

 運動としての巧拙を言いたいのであれば、まずは自らがその運動を担え、ということを僕は主張する(おおや氏はきっと認めていないのであろうが)。その是非は、問題になっている徐京植的な無限責任論に同意するのかどうかに依存する。同意しないのであれば、諦めてテロリズムと同居してくれ、と思う。人は、生きる条件が保障されないまま無視されているよりは、生きる条件が保障されないまま「こいつら絶対許さん」と思われることの方を選ぶことがある。多分、状況次第で、僕もそちらの方を選ぶ。「死ね、さもなければ殺すぞ」という脅しは有効ではありえない。

 ところで私が言いたいのは、これらは「アゴラ」の問題だということである。おそらくこの行為は外形的には(bewaad氏ご指摘の通り) 威力業務妨害罪にあたる。制度変更へのリソースに関する不正義がある故に不法行為も正当化されるというなら(前提が争われていることはとりあえず措く)、以前あったような、加入年数が足りなくて年金が受け取れないことに怒って対応した係官を刺殺するような行為も正当化されるのか。おそらくmojimoji 氏はここでそれを全面的には肯定されないだろう。つまり(a) 権利主張が正義に合致しているか、(b) 行為の態様が相当であるか、を条件として想定されるのではないか。ところで(a)を主張するためには正義が法と外在的に存在することを示す必要があり、 (b)はと言えば、そのような行為の相当性の基準となっているものが(例えば)刑法である。(b)説を採れば本件は法的には威力業務妨害罪にあたり、それを受け入れる、あるいは少なくともその可能性を覚悟する必要があるということになろう。これはアゴラにおけるその行為の評価とは別の問題である。

 少なくとも、不法行為が正当化される、という言い方は僕はしていない。何度も言うけど、僕は法の外に正義を想定する。その上で、不法行為への非難を正当化できる正義が存在しない、と述べている。ある人の存在するための条件が保障されていないなら、その人が法に従わないことを非難できない。その際でも、法は彼を裁き、罰するだろうが、それはただ論理的正当性を欠いた暴力として法を彼に押し付けることしかできていないことを意味する。少なくともそれを自覚しておくべき、ということだ。それはつまり、現実がおおや氏が述べているような次の事態そのままである、ということでもある。

逆に、仮に先の宇宙人がやってきたとすれば私は私の生存を確保すべく無根拠に抵抗するだろう。うまくすれば勝てるかもしれないし、相手が諦めるかもしれないし、何らかのmodus vivendi(暫定協定)に達し得るかもしれない。ついにダメなら食われることだろうが、これは事実としての敗北であって「食われるべきだ」という規範を受け入れたのではない。
(「生存報告」http://alicia.zive.net/weblog/t-ohya/000155.html より)

 法が、人の存在の基礎を保障しないにも関わらず法の内的な論理としては整合しているようなとき、法全体が拒否され、この例における私たちと宇宙人の間におけるのと同様に、「なんらかの規範を受け入れたがゆえに起こるような事態」は起こらない。それは、法が法として期待される役割を放棄したのと同義だ。

 「年金の受給ができないと知らされて係官を殺害した件」については、殺害した彼の存在の基礎が保障されていないのであれば、その行為を僕は非難できない。彼をエビ扱いすることによって、彼は湯につけられるエビの反撃の一打として係官を殺害したのだろうし、仮に彼を私たちの法に従って罰したとしても、それは「事実としての敗北であって、「罰せられるべきだ」という規範を受け入れたのではない。」

 無論、僕が近くにいて止めうる立場にいるならば、止めるだろう。しかし、その場合には、「あんたが置かれている状況は正義に適わないヒドイ状態であり、それを代えるために俺も一緒に戦うから係官を殺すのだけはやめてくれ」という言い方になるだろう。存在の基礎を保障されていない彼の行為を法は止めることができない。むしろ、法は止めることを放棄している。それでも彼を止めることができるのは、法の外に存在する正義へのコミットだけだ。

確かに安価な非正統的解決手段があればそこに人々が集まるのは当然であり、正統的解決の実効性を強化するためには対策が必要である。ところでその対策は、正統的解決を安価にするという方針でも、非正統的解決を利用した場合に制裁sanctionをコストとして付加することによって高価にするという方針でも、理論的には良い。そして我々は後者の方法論を否定することはできない

 おおやさんは一体、秩序を守りたいのか、それとも法秩序さえ守れれば後はテロでも何でも好きにやってくれという考えなのか。後者であるならば、そもそも社会の中に積極的に何か意味のあるものを守ろうとすらしていないのであり、一体何のために社会についてアレコレ語っているのかさえ意味不明になってしまう。

いずれにせよ問題のここまでの射程を考えるならば、(a) そもそも人間であることをclaimできたりできなかったりする存在の範囲か、(b) 「人間として扱われることの要求」の範囲を客観的に定義できない限り、mojimoji氏の議論は楽観的に過ぎるとの謗りを免れないであろう。念のために言うと植物その他の存在を主体性を認め得べき範囲からアプリオリに除外できる理由は、私には思い付かない。海は死にますか山は死にますか。山川草木悉皆成仏である。
(「生存報告」http://alicia.zive.net/weblog/t-ohya/000155.html より)

 第一に、人間として扱えと主張する者に対して、「あなたと草木の区別がつきません」と言い返すことのマヌケさを知るべきだろう。あるいは、同じことだが、「人間として扱え」という主張に対して、「あなただけじゃなくて、草木も平等に人間扱いしていないじゃないですか」と言う場面を想像してもいい。そういうことを言う前に、まず人間として扱わねばならない。その上で、なぜ草木を人間として扱わないのかについて、「共に」考えればいい。もちろん、望むなら、人間扱いしなくてもいい。その場合、彼と私たちの間に正義は存在しない。殺し、殺される関係しかない。仮にそこに法があるとしても、その法によって裁くことは「事実としての敗北」を意味するのであり、彼がそれを規範として受け入れたことを意味しない。

 第二に、(b)についてだが、このような範囲について考えることは、それほど難しくないケースの方が多い。たとえば、24時間介助が必要な脳性マヒ者が人間として生きていく条件については、とりあえず介助保障が必要なことは見れば分かる程度の話であるし、他に何が必要なのかについてもかなりの程度、生活実践の中で具体化されてきている。

 (b)の問題を殊更に難しいものであるかのように言う場合には、大抵ある勘違いがある。その勘違いというのは、あらかじめ「あらゆる事態に対処できるような万能の評価軸」が作れなければならない、と勝手に問題を難しくしているからだ。彼らは現実に生きているのであるから、その生活と付き合いながら必要なことを一つずつ整備していけばいい。(私たちの評価関数がもたらす順序は、実用的な意味では完備性を備えている必要はない。)

 第三に、実際に問題を抱えた人たちの間に分け入って、その生がどのように営まれているのかを調べ、そこに必要なものが何かを考えるための知的作業のコストを負うのは、本人である必要はない。これこそが社会的に負担すべき手続費用である。