モジモジ君のブログ。みたいな。

はてなダイアリーから引っ越してきました。

漸近する守旧派と保守主義

 出勤してみたら、雪で電車が遅れたせいで試験が1時間繰り下げになりました。時間空いたので、続きを書いてみました。


 法廷と手続的正義・続々@おおやにき
 http://alicia.zive.net/weblog/t-ohya/000150.html


 この中でおおやさんが次のように述べている。保守主義者と守旧派が区別できるものとして書かれている。この点を僕なりにつっこんで考えてみる。今回のエントリから、bewaadさんへの返答に関係する内容も含まれていくことになると思います。

もちろん「いまこうなので未来永劫変えません」なんてことを言うつもりはない(私は保守主義者ではあるが守旧派ではない)。変える理由が十分にあれば変えるべきである。でその「十分に」というのは、最低でもデメリットよりメリットが多いこと。それを示さずに批判だけをするのなら、前にも似たようなことを書いたが、2500年分議論を積み重ねてからおいで、ということになる。

(追記:僕は、本文中述べているところの「コスト」をすべての人が負担するルールが採用されるならば、保守主義者になれと言われてもそれほど嫌ではない。)


 キーになるのは「変える理由が十分にあれば変えるべきである」という点である。これを示すためには非常に手間がかかる。問題の所在が主張され、それについての事実調べがあり、当然その中には虚偽や誇張も含まれており、何が事実かを確定することにすら慎重な手続きが必要であり、その間も人々の生活は続いていてそれに伴う負担は現実に存在し・・・社会問題を問題化する運動が負うコストは計り知れない。

 僕が身近に観察することのできた障害者の介護保障の要求運動(の一部)に関して言えば、制度について勉強し、討論し、行政とアポイントをとって交渉し、それを持ち帰ってさらに勉強をする。しばしば、行政はアポイントを取ることすら嫌がる。それだけでなく、行政が介護保障をしない間も個々の障害者の生活は続いており、日々の介護を「誰かが」負担する必要がある。「最低でもデメリットよりメリットが多い」ことを証明しなければならないといわれる人たちは、このような生活の中で「証明しなければならない」。


 さて、このコストを誰が負担するのか、である。「同意さえあれば」誰が負担してもよい、と考える。しかし、おおや氏(そしてbewaad氏)の口ぶりからは、これらのコストは主張する人たちが当然に負担すべきものだと前提されているようである。その前提には一見したところ仕方のなさがあるようには見える。そうした主張を行う切実さを感じていない人たちからすれば、そうしたコストを負担することに同意したくはないだろうし、実際しないだろう、と。

 しかし、このコストが現実をどのようなものにしているかを考えておくことは有用だ。すなわち、このコストを当事者負担とすることは、当事者が正統の手続きを経て現状を改善する可能性を著しく低下させる。さらには、しばしば不可能のものとする。このとき、保守主義者は守旧派と何ら変わるところはない。守旧派がそもそも物事を変えるなと言う代わりに、ある種の保守主義者は負担不可能なコストを要求することで実質的に物事を変えさせない。

 これが帰結することは何か。よりコストの低い「非正統の」方法があれば、それが選ばれるということだ。一つ例をあげる。神戸界隈の障害者運動のごくごく初期の頃の話。介護ボランティアさえほとんどおらず、行政による介護保障はまったくなく、とてもではないが制度がどーたらという勉強をすることさえ不可能だった時代のことだ。聞いたところでは、車椅子の乗客をバスに乗せないというバス会社に対して、一部の障害者たちがバスの運行を妨害するという「暴挙」に出た。脳性マヒで四肢の動かない障害者たちが(介護者の手助けによってではあるが)バス停で停車中のバスの前に寝転がるのである。当然、介護者は車椅子を押して遁走する。「乗せないなら、俺を轢いて殺してから、バスの運行をしろ」という意味である。こうした「暴力的な」抵抗運動の成果かどうかまでは知らないが、現在神戸のバスは車椅子による乗車拒否をしない。*1言うまでもなく、テロリズムと名指される行為の一部も、こうした行為の延長線上にあると僕は考える。

 私達が、「非正統の」方法を用いることによる法の不安定化?暴力の顕在化?を阻止したいならば、その願いが真剣であるならば、そのためのコストを負担するべきだ。それはつまり、制度変更を主張するためのコストを負担することを意味する。つまり、私が考える代替案とは、「すべての人が、すべての問題に対して、このコストを負担する義務がある」とするルールであり、これに皆が同意するべきだ、ということだ。あなたが「非正統の権利主張をなくし、正統の手続きを通じて主張されるという秩序を守りたいならば」、それを実際に支えるためには、正統の権利主張にさえ伴うコストの負担を見直す必要がある。もちろん、「すべての人が、すべての問題に対して、このコストを負担する義務がある」というルールは、「語り口の問題/立ち位置の問題」で紹介した徐京植さんの前提、「「問題が日本社会で起こっていること」と「私たちが日本社会の主権者の一員である」という2つの事実だけから、私たちはその問題に対して責任を負っている」とする考え方と重なり合う。

 このような権利負担をする義務が存在する、それが真理だ、という主張はしない。ただ、このルールに同意せよ、と求めるのみである。同意しないならどうなるのか。人々が(よりコストの低い)非正統の主張スタイルを選ぶことを、まずはやむをえないと言うべきだ。文句を言うなとは言わないが、それは非難できることではないのだということを自覚しておくべきである。


 今回のエントリで、bewaadさんへの回答の一部にもなっていると思う。ここからまた続けて主張したいことや検討したいことはあるので、おいおいまた書き足していきますが。また、最近女性国際戦犯法廷に直接言及する機会がぐっと減っていますが、諦めたわけではないので少々お待ちください。基本的には、「非正統の権利主張の一形態としては、それでもやはり支持するよ。」という気持ち。今やっている議論は、そうした支持をアリだと主張するための根拠づくりのつもりです。以下、何点か付記しておきたいこと。

おおや氏の法哲学会レポート(2)との関連で

 法哲学会レポート(2)
 http://alicia.zive.net/weblog/t-ohya/000141.html

 僕は、今回の問題が、このおおや氏のレポートにおける嶋津氏との対立点とパラレルであると考える。

一番良かったのは愛敬報告だと思う。特に、排除と私有という概念は追い出せる先としての公有(地)を前提にしているという指摘はまったく正当。この点に関する私の質疑について補足しておくと、愛敬報告自体はこの点を「合法的な行為」という法的な次元で問題にしていた。だがその段階では(山田報告がちょうどその点を問題にしていたが)、通行権も一般的に認めるのではなくすべて個別の契約で処理するという解決が、立法論的にはあり得るだろう。そこで私は、そのような解決を行なったとしてもリバタリアニズムがこの問題を処理できないのではないという補足を試みたわけである。


嶋津会員は私の質問に対し、リバタリアニズムは(山田報告のように)一般的な通行権は与えないだろうという応答をした。従って個別の契約なしに通行しようとすればそれはtrespass(不法侵害)になるのだという指摘だと理解するが、しかしそこで行き場を失なった人間が「ああ俺にはこの三界に身の置き場がないのだなあ」と慨嘆しておとなしく首をくくってくれるようなら良いのだが(それにしてもどこで首をくくるのかという問題は残るか)、例えば私だったら合法的な死より不法の生を選択するので「我に自由を与えよ、しからずんば死を」とか何とかわめいて敢然と不法侵入するに決まっているのである。もちろん侵入される側も従容と私に殺されたくはないとすると、私の侵入を排除できるような実力を用意することになるだろう。となると私としては同様に土地にあぶれた人間を説いて連合し、より大きな実力を形成しようとする。これを排除するために土地所有者もまたより大きな実力を形成し……とやっていると結局、秩序維持に必要な実力のインフレーションが発生し、国家があるよりもより非効率な社会が形成されてしまうのではないか。これが私の質問の趣旨であった

 敷衍して言えば、正統な手続きの中での主張コストを当事者負担に帰するというアイデアは、それを彼らが負担できることを前提にしている。おおや氏が言うように、「行為の正当性だけはでなくその実行可能性が重要」なのは、こちらの文脈でも同じことだと僕には思われる。

稲葉さんのコメントに関して。

 [justice] 語り口の問題/立ち位置の問題
 http://d.hatena.ne.jp/mojimoji/20050126

のコメント欄での id:shinichiroinaba 先生の発言に関して。

ラディカル左翼として「そういう責任の論理は存在しない」と主張しているのが小泉義之だすな。この小泉の議論に非常に魅力を感じつつも「それもまたケースバイケースであり、時には成り立ち、時には成り立たないのではないか」という批判をしようと悪戦苦闘中であるのがわしだすな。『大航海』のエッセイとちくま新書近刊が関係するはずだすな。

 小泉義之氏の言う「そういう責任の論理は存在しない」という命題は、僕は納得のいくものです。しかし、そのような責任の論理に同意することとしないことの意味を問うことは可能だし、僕らの社会がどちらを選ぶのかということはいえるし、その帰結を引き受けることを求めることはできると思うのです。僕としては、「本気でその責任の論理を拒否するおつもりですか?」と聞いてまわりたい、という感じです。

 『大航海』のエッセイ(とちくま近刊)は確実に手に入れさせていただきます。あと、もちろん、S&Gも近々再開します・・多分。(オイオイ)

*1:ただし、車椅子の乗客に対する実質的な嫌がらせはしばしばあり、バス会社としての意識はあまり変わっていないとも感じる。