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立ち位置を選ぶという特権

 法律家という立ち位置@おおやにき
 http://alicia.zive.net/weblog/t-ohya/000153.html

 専門家としての立ち位置の問題って、そんなに簡単に回避できるんですかね?



 法律家としての立ち位置がある者には、法律家以外の立ち位置が存在しない、と言うならおおや氏の見解に納得できる。しかし、そんな馬鹿な話はないだろう。私達は、法律家の立ち位置から話をする者に対して、「あなたの個人的な立ち位置からはどうなんですか」と重ねて質問することができるし、これに対して「私は今法律家の立ち位置で話しているから(答える必要がない)」という答えは単なるはぐらかしである。

 法律家でもなく、他のあらゆる意味においても専門家ではないような人が何らかの問題に対して発言するとき、彼は彼個人という立ち位置以外のどのような立ち位置からの発言も不可能である。では、専門家だけが、立ち位置を「選んで」発言できるとするなら、一人の人間としての立ち位置を隠蔽して構わないというなら、そのような特権はどのように正当化されるのか。

 おおや氏は、とりあえずは自分の立ち位置について語っているので、その意味では構わないが、その意味づけには反対したい。おおや氏の口ぶりからは、語っても語らなくてもいいのだがあえて語っているかのように取れるのだが、それは違うだろう。法律家に対して、法律家の立ち位置以外からの発言を求めても何ら構わないし、それに対して口をつぐんでよい理由はない。


 では、なぜ、専門家を専門家の立ち位置から引っ張りだす必要があるのか。女性国際戦犯法廷を評価する際に、その欠点をあげつらうことが仮に可能であるとしても、少なくとも提案されている代替案の中では「マシ」でありえる。専門家が専門家の立ち位置に閉じこもるということは、この代替案を出す責任を逃れようとしているということでもある。そのようなアンフェアなコミットの仕方が許されるべきではなかろう。

 もちろん、代替案がなければ批判をするな、ということではない。自らのコミットの仕方を示すか、よく分からないということであれば「分からないなりの条件付のコミット」を示せばよかろう。「何かをすべきだ」という方向性に共感するということなら、「法廷と手続的正義・続々々」コメント欄で田島正樹氏が述べておられる「この際、この試みの可能性や手続き的瑕疵を吟味し、その成功への条件を助言すること」という態度につなげればいい。もちろん、共感しないならば、何もするな、という形でもかまわない。いずれにせよ、自らの態度を明らかにすべきだろう。この場合、女性国際戦犯法廷を擁護する側が示すべき根拠は、その瑕疵のなさではなく、何もしない場合に比べてのマシさ加減であるのだから、証明負担ははるかに軽減される。言い換えれば、専門家が専門家の立ち位置に閉じこもること自体が、不当に重い証明責任を相手に課すことと同じことでありえる。これもまた、問題視すべき専門家権力の一形態だろう。

そこで専門家としては、専門家としての立ち位置、すなわちその分野の専門家であれば一致してそのように言うであろうところのものと、自分自身の立ち位置とを区別して語るべきだということになる。

 この主張の「文言」に全面的に賛成する。しかし、おおや氏は、いつのまに「区別すること」を「語らないこと」にすりかえたのだろうか。専門家がなすべきは、「区別すること」であるなら、区別された形で「個人としての立ち位置からも」語ることはむしろ求められている。にも関わらず「語らない」のはなぜなのか。おおや氏が引用している次の一文も示唆的である。

法律家とは、「道路交通法によれば、あなたはここに駐車してはならない。ところで私はそれに反対である」と何ら矛盾なく述べ得るような存在である

 ここでしばしば求められるのが、「」内の後半部分、「ところで私はそれに反対である」の部分である。これは専門家としての発言ではない。しかし、専門家が、専門家としてではない発言を求められたときにそれを言わずに済ませる理由などないことを、この例も示唆しているではないか。「そこから おおや 自身のコミットメントが見えないと評価されればしめしめ」などと思っている場合ではない。それ自体が、専門家権力そのものだろう。

付言すると、支援を必要とする人の存在を知りながら見殺しにすると息苦しさを感じるという人は優秀な専門家にはなれないと思う。目の前に10人の重傷者がおり、しかし2名分しか医薬品がなければ、救命できる可能性の乏しい方から8人をいますぐ楽にしてやるのが医師の倫理である。限られた資源の配分という課題に応えるためには、あとでいくら息苦しさを覚えようが罪悪感に苦しもうが、その場でためらってはならない。やはり専門家というものは――よこはま 氏がかつて指摘したことを思い出すが――ある種のアパシーを前提にしているのかもしれない。

 これは問題のすりかえであるので、やはり言及しておかねばならない。おおや氏の言う状況の中で、できる最善のこと(この場合は2人を救うこと)を行うのが専門家である。良い医師は、これと同じ状況おかれたときには、何度でも繰り返し8人を見捨てるだろう。それが最善の手段だからだ。しかし、そのことは、その医師が、8人を救えなかったという状況そのものを人間としてどう受け止めるか、ということを尋ねてはならない理由にはならないし、それを表明してはならない理由にもなっていない。第一に、その医師はその事実を「人として」嘆き悲しむ感性を持っていてはならないことを意味しない。第二に、「なぜ二人分の医薬品しかないのか」という状況そのものを問う姿勢があってはならないことを意味しない。もちろん、災害時など、どうしてもそうした困難な状況に陥りえることは否定しない。しかし、そんなどうしようもないダブルバインドな状況がどれだけ私達の社会の現実だろうか?*1

 さらに言えば、こういうことで痛みを感じない医者というものを、非専門家が見たときに、どうして専門家として最善の判断を行ったのだと信頼できるのだろうか。私達が、原理的に評価することのできない相手としての専門家をなおも信頼しようとするときに、その人の人としてのコミットの仕方を信頼の拠り所とすることはしばしばある。その意味で、人としてのコミットの「区別された」「適切な」示し方というのがあり、そもそもコミットの仕方を示さないというのも専門家としてどうなんでしょうね、という嫌味は十分的を射ていると感じる。

 「専門家がある種のアパシーというものを前提にしている」という可能性には、基本的に同意する。しかし、専門家が、専門家としての立ち位置しか持っていないということはない。言い換えれば、専門家としては責任を果たしえないならば、人としてコミットしていく中で責任を果たすしかない、ということでもある。


 岡真理さんの『記憶/物語』についての短評は、参照させていただきました。けど、これ、かなり読み違えてませんか?という印象をもっています。これについてはまた別のエントリで改めて。

*1:たとえば、薬品の在庫を管理すべき人物の怠慢によって、同じ状況に置かれたとする。その場合でも、良い医者はやはり8人を見捨てる。しかし、それ以外に何もしないならば、その医者はやはりどっかおかしい。