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語り口の問題/立ち位置の問題

 ■ mojimojiガンガレ!(決してアイロニーでなく)@インタラクティヴ読書ノート別館の別館
 http://d.hatena.ne.jp/shinichiroinaba/20050125


 僕は自分でもこんなエントリを書いている人間なので、(表面的な意味での)語り口は問題にすべきでない、と考えてます。自分がどういう語り口を使うかはまた別の話なんですけども。その道の専門家にアヤつけてるわけだし、アホなことをいってそれを罵倒と共に否定されることは致し方ないものだと一番最初のTB投げたときから覚悟は決めてます。何より多くの収穫をもたらしてくれているわけですから、その意味でもおおや氏には感謝してますよ。むしろ、些細なことでもこちらの発言に拾うべきものがあればきちんと拾ってくれているし、何よりこうして時間を割いてくれている。ありがたいことです。もちろんbewaad氏はじめ、一連のエントリに絡んでいろいろ発言してくれている皆様に対しても。もちろん、専門家が素人と話すときに態度として考えるべきことはあるかもしれず、僕自身が納得しているかどうかは、稲葉さんご指摘の問題の重要性を否定するものではありません。むしろ、僕自身もよそにいって話したりするときには考えるべき大事な問題です。

 しかし、ではまったくいらつかないか、というとそうでもないわけで、それは稲葉さんが指摘しているのとは違う理由によるものです。もちろん、それはおおや氏が示してくれている啓蒙的内容の価値を損なうものではまったくないのですが、そのいらつく原因について述べておくことには今後僕のような者が何を考える必要があるのかを確認する上で有益だと思うので、整理しておきます。一連のやり取りを見ながらおおや氏より僕の方にむしろシンパシーを感じる人には、表面的な語り口にいらだっている人ももちろんいるだろうと思うけど、僕はそれだけではないと思うので。で、この点を考えるには、稲葉さんの紹介している内田樹氏による岡真里批判が参考になると思うので、ちょっと利用させてもらいます。
 http://www.geocities.co.jp/Berkeley/3949/uhohoi1.html



 内田さんは誤解していると思うのですが、岡真里さんが問題にしていることは表面的な語り口の問題というよりは、「立ち位置」に起因する語り口の問題でしょう。近い立場にいる徐京植さんなんて割りと分かりやすいと思いますが、基本的には、「問題が日本社会で起こっていること」と「私たちが日本社会の主権者の一員である」という2つの事実だけから、私たちはその問題に対して責任を負っている、と考えているようです。そして、「語り口」の問題というのは、この責任を負っているという関係を踏まえた語り口をせよ、という形で出てくるのだと理解しています。岡さんは徐さんと非常に近い立場の人なので、この前提を共有してるはずです。口の悪さで言えば確かに徐京植さんも結構悪いと思いますが、それは内田氏が言うように自分だけを棚上げにしてるわけではなく、徐さんや岡さんが問題にする「語り口」の問題というのが内田氏が言うものとは別のものだからでしょう。

 実際、社会運動の現場にやってきて活動している人たちは、岡さんの文章を読んで息苦しさを感じたりはしないようです。僕の周辺の少ないサンプルに限られますが。この人たちからすれば支援を必要とする人の存在を知った以上、見殺しにすること自体が息苦しさを感じさせる原因なわけです。つまり、存在する個々の生の中に息苦しさが存在するのであって、岡さんの語り口からわざわざ生み出されているわけではない。その意味で、内田樹さんの批判は、あまり的を射ていないと僕は感じます。


 そこで、最初の問題。僕が何にいらだつかといえば、それは表面的な口調の問題じゃなくて、おおやさんが自身と従軍慰安婦問題の間にそのような関係などないかのようなふるまっていることによります。つまり、徐京植さんが考えるような責任の論理を否定した態度をとっているわけです。僕にシンパシーを感じる人が不満を持つ人の中にも、この同じ点について不満を持っている人もいるだろうと僕は推測します。ここで問題にされている「語り口」というのは、単に厳しく言えることをやさしく言い直す、というようなことではなく、「立ち位置」と責任についてのその人の信条を反映しますから、おおやさんが自らの立ち位置の問題を認めない限り、こうしたスタンスの心情左翼は苛立ち続けるでしょう。

 もちろん、おおやさんへの心情左翼の不満は、おおやさんが示されている啓蒙的内容の価値を低めるものではまったくありません。と同時に、おおやさんはかなりの量の思考を重ねた上で、徐氏が言うような責任の論理など成立しない、あるいはさせてはならない、と確信しているみたいですから、文句があるなら、この点について理論的な反論を考えていくのが筋だということは分かっているつもりです。