モジモジ君のブログ。みたいな。

はてなダイアリーから引っ越してきました。

おおや氏「法廷と手続的正義・続々」に答える

 気が早いですが、25日のエントリを使います。(24日11:00時点)
 「法廷と手続的正義・続々」
 http://alicia.zive.net/weblog/t-ohya/000150.html

 「取材問題」については、やはり排除があった可能性の指摘まで含めて付け加えることはありません。「正義と自由」については、女性国際戦犯法廷に直接関わる論点ではなくなってきているので、別エントリとしてコメントする予定です。本エントリで扱うのは、「強制力との結合問題」についてのみです。(ただ、「正義と自由」の後半、関係する部分についてはコメントします。)

(24日13:00頃追記 いくつか加筆をしました。加筆箇所は見れば分かるようにしてあります。)

この点について私の言いたいことは、告発なりアイロニーであるというなら、そういうものであっていささかも権威性を主張するものではないということが明確にされていなければならないし、その理解が社会的に共有されなくてはならないということに、ほぼ尽きる。

 女性国際戦犯法廷は「民衆法廷としての」権威性を要求しているけれども、しかし少なくとも国家の設置する法廷が要求するのと同じ権威性を要求したりはしてない。そして、その違いは、「民衆」という言葉が冠されていることだけでも十分に分かる。だから、おおや氏の言う意味での「明確にされていなければならないもの」は明確にされている、というのが僕の解釈。

 民衆法廷としての権威性というのは、(僕の解釈によれば)あくまでも手に入れられる法律の可能な解釈を通じてもたらされた判決であると認められること、つまり、立法論ではなく解釈論として成立しているものと認められることだろう。その解釈において、判決文は「法の適正手続の諸権利の範囲は、権利に影響を受ける個人が如何なる不利益を被り得るかによって決まる」と述べた上で、(1)実際に強制力の発動という形で被告・被告人に不利益を及ぼさないこと、(2)ゆえに量刑や補償額など量的判断に踏み込まず、責任の有無についてのみ判断を下そうとしていること、という2点において国家の手による法廷よりも限定された範囲での判断しか下さないために、このような手続きで適正手続は確保されているとみなせる。彼らは死者を告発することも手続法の解釈次第で可能だ、と考えているらしいです。だから「それをやったらそこらじゅうでえらい問題が起きるからできない」とは考えていませんね。明らかに。

 そしておおやさんが求める「変える理由が十分にあれば変えるべきである。でその「十分に」というのは、最低でもデメリットよりメリットが多いこと。」については、判決文は次のように述べています。

『法廷』の『判決』は、しかし意義深い道義的な力を備えている。判決は、世論の裁きの庭の前に被告人らの作為または不作為を明らかにすることができ、それによって少なくとも、被告人に恥を与えることができる。・・・・・公式の司法的、あるいは法的な手続が不在である中で、歴史的事実を公に広めるのである。・・・・・被告人の世評に対するこのような間接的不利益は、公式な刑事手続や、世評にのみ影響を及ぼす非公式の刑事手続にさえ求められるのと同等のデュー・プロセス権を認める十分な根拠とはならない・・・」

 この見解に賛成するかどうかは別にして、彼らはデメリットよりメリットが多いつもりでそう主張している。

 これが解釈論としてダメである、という評価はありえる。しかし、どう考えてもおおやさんが要求する「形式」は僕は整っているようにしか見えないので、その解釈論が法廷という形で表現されることまで否定する理由にはならないだろう。(仮に誰かがこの解釈の内容に踏み込んだ批判をなさる場合は、僕の素人読解を前提せずに、是非とも『全記録』2冊の該当箇所に直接当たってください。詳しくは、川口和子「民衆法廷としての女性国際戦犯法廷 ── 「適正手続」の保障の有無という観点から」(『全記録』所収)および判決文四八四〜四八六項(『全記録Ⅱ』所収)をどうぞ。)

 ただ、VAWW-NET-JAPANの対外的な説明自体が分かりにくいせいで、民衆法廷が「法廷」を名乗ることの意味がまともに伝わっていないのは確か。その意味では、「今回問題になっている「民衆法廷」と、mojimoji氏の擁護したい民衆法廷には・・・乖離があるのではないか」というのは違ってて、むしろ乖離はVAWW-NET-JAPANの説明と女性国際戦犯法廷の間にあると僕は考える。

(2つ上の行の「違ってて」は違いますね。この意味でのズレもあるが、後者のズレもある。いくつかのズレが混線しているので、これについてこのエントリの最後に追記します。)



 最後に、おおや氏の次の発言は、僕の要求をまったく誤解していることを申し添えておく。

で、「その要件を欠くことで一体何がどのように問題なのかを具体的に示そうとはしていない点が僕は不満」などと述べておられることに対しては、端的に甘えんじゃねえと言っておく。なんで私が法的主体性のイロハも知らないようなシロウトにそこまでサービスしないといかんのか。

 僕が質問してるのは、「一般的に認められている適正手続のプロセスの根拠は一般的にはなんですか」という教科書レベルの話ではない。「民衆法廷という強制力を行使しない(そして、後から知ったところによれば「限定的な範囲の判断しかしない」)法廷に対して、正統な法廷と同じレベルの適正手続を要求する根拠は何ですか」という話。そういう話も教科書に載っているというのなら申し訳ありませんが。

女性国際戦犯法廷における適正手続の考え方

 蛇足になるかもしれませんが、おおや氏も以前「Amicus Curiaeはなにか権威のあるものだというわけではないし、弁護人の代替になるものではない」というコメントを寄せていて、どうも「女性国際戦犯法廷アミカス・キュリエを弁護人の代替物として扱っている」と認識されているのかな、と感じるので、これについてコメントしておきます。

 関連部分を『全記録』から拾い読みする限りそうではない、ということを指摘しておきます。これも、VAWW-NET-JAPANの側の説明の仕方が悪いせいで誤解を招いているような気が僕はしますが、それはそれとして。

 さて、結論から言えば、少なくともこの法廷は、アミカス・キュリエを弁護人の完全な代替物として取り扱っているわけではないです。アミカス・キュリエは、まず、この法廷に弁護人も、その代理人も、それらのいずれかによる書面での主張も、どれも存在しないことを適正手続を疑わせる重大な論点であることを指摘し、「判決が仮に有罪判決を下す場合には、これらの問題点にも関わらず実質審議に踏み込み、かつ有罪判決を下しうる合理的理由を付すこと」を求めています。そして判決文ではその論点についての判事の結論を述べて、法廷が適正な手続きを尊重していることの理由としているわけです。

 素直に読むなら、この法廷が適正手続たりうるという主張の根拠は、アミカス・キュリエの存在にはありません。この法廷が決定する限定された内容に対しては、この法廷がとった手続きによって適正な手続きとみなしうるというこの法廷の判断が根拠になっています。すごいアクロバティックだなぁとは思うわけですが、少なくとも、おおや氏がこの法廷の適正手続を批判するためには、この法廷が示した「合理的理由」の中身について批判しなければならないことになります。それは自動的に、この法廷が形式として整っていることを意味するでしょう。

「正義と自由」後半に関して

 僕の述べていることがある段階から法廷に立法論を持ち込んでいることの正当化を主張しており、それがそうなら問題だという指摘(だろうと思うのですが)は甘受します。と同時に、これはまずは僕自身の女性国際戦犯法廷の理解が足りなかったせいであって、女性国際戦犯法廷の方は(その中身のアクロバットをどう評価するかはさておき)解釈論で張り合う意志を持ってなされているものらしい、という点は先に述べたとおり。用いられている手続法が一体何なのかは分からないのですが、どうも日本のものみたいですよ。信じがたいと思いますが。

なお「イラクアフガニスタンの件」、誤解させる書き方になっていたら申し訳ないが、「法的には」正当だということである。

 これ以下の部分については、ほとんど反論するところはありません。懇切丁寧な解説を感謝します。

 あと念のために言うといわゆる「従軍慰安婦問題」は、通常の意味では、「法の不在」ではない。「従軍慰安婦」の方々の証言が事実であることを仮定すると(裁判で認定された事実ではなく、また疑わしいものも多くあるという主張もあるが、虚偽だとするとこれ以降の話は不要になるのでとりあえず措く)、確かに被害に対する救済は不在である。しかしそれは救済を与える法が存在しないのではなく、救済を与えることを否定する法が存在するからである(時効、除斥期間、個人補償請求権の日韓基本条約等による消滅)。もちろんこの点を争う議論は法的に可能だが(eg. 除斥期間は著しく正義に反する場合には適用されない)、それは「法が不在である」という主張ではない。「法の不在」のことを通常は「法の欠缺」と呼ぶ。その存在を想定しない立場もあるが、あるとしてもそれは普通、立法時に想定されていない事態が発生したような場合のことを指すものである。

 判決文においては、「法の手続の不在」となっていますね。それと「除斥期間」については、国家が被告となっている場合を想定しているのかどうか(つまり、それは立法時に想定されていない事態ではないのか)と言いえると思うし、あるいはこれと同じか別の論理かは知りませんが、これについて女性国際戦犯法廷は何らかの考えを示していることでしょう。具体的に何なのかはまだ読んでいないので分からないとしかいえませんが。個人補償請求権については日韓基本条約によっては消滅していないという議論は「解釈論として」提示されているものと僕は理解しています。なので、僕自身がアゴラに出て行くのはやぶさかではないのだけど、女性国際戦犯法廷についてはやはり法廷を名乗るくらいの形式は整っていると、やはり思いますよ。

この問題に関し、「救済の不在」「正義にかなう法の不在」は主張してよろしい。ただしこれらはいずれも立法論に属し、その解決は法の外側において (すなわち法廷の外側において)為されるべきことである。

 これについても納得します。「法の不在」という言葉の使い方がユルユルだ、というのは自覚しておりますので、誤解を招かないための言い換えには従います。

ズレについて(24日13:00頃追記)

 既に述べましたように、、女性国際戦犯法廷の方は解釈論としてこの問題に取り組んでおり、おおやさんの言う形式的な要件はやはり満たしており、それが法廷という体裁を取ることには問題はないと考えます。

 ただ、その点が、この法廷を支える運動の日本におけるスポークスマン・VAWW-NET-JAPANが分かりやすく伝えているかというと、問題はあるように思います。僕も誤解していたし、と同時に、おおやさんも(VAWW-NET-JAPANのサイトを見たはずですが)この点を誤解しているように思えます。VAWW-NET-JAPANの説明の仕方に帰責すべき点もあるかもしれませんが、僕が弁護しているのも、おおやさんが批判しているのも、実際に行われた女性国際戦犯法廷の主旨とはかなり異なっている「プロパガンダとしての民衆法廷」であるということは、一応確認しておくべきだと思います。その上で、僕が弁護しようとした幻の民衆法廷に対してはおおやさんの批判が当てはまることは認めます。まぁ、つまり、僕のいらん援護がかえって混乱を招いたということです。

 現実の女性国際戦犯法廷がそういうネタの自覚があったのかどうかについては、既に書いたようにそもそもネタではなく解釈論として勝負を挑んできている(つもりの)人たちなので、そういう自覚があろうはずもないでしょうし、それでいいと思います。

 で、仮に、僕が最初に誤解したとおりのなんちゃって法廷であったらどう考えるか。その場合でも、おおやさんが言うように「告発なりアイロニーであるというなら、そういうものであっていささかも権威性を主張するものではないということが明確にされていなければならないし、その理解が社会的に共有されなくてはならない」ということであるなら、その自覚と周囲へ周知するための努力を前提として、やはり「やっちゃえやっちゃえ」という気持ちですね。この場合、運動としてみるとしてももっとうまいやり方がある、という批判はむしろなされるべきだと考えています。その意味で、id:kaikajiさんが書かれていることには同意。ただ、実質VAWW-NET-JAPANとその周辺以外にこの問題を真面目に取り上げている運動はほとんどないわけで、運動のやり方としてそれを批判する資格は、その問いを共有して別のやり方を示そうとする人たちにしかない、とはやはり繰り返し述べることにはなると思います。