モジモジ君のブログ。みたいな。

はてなダイアリーから引っ越してきました。

おおや氏「法廷と手続的正義・続」に答える

 おおや氏『法廷と手続的正義・続』@おおやにき
 http://alicia.zive.net/weblog/t-ohya/000149.html

 「信頼性について」、「「強制力と結びついていないからいいじゃねえか」(意訳)について」、「「正義」から出発するか「自由」からか」の3つに分かれてます。第一の論点は、おおや氏の誤解です。と同時に、id:Jonah_2氏の指摘によると、そもそも論点自体存在しない可能性があります。第二の論点は、正直肩透かしにあったと感じています。第三の論点が一番鋭く対立している論点であり、おそらくは一番重要な論点でもあるんだろうね。

今から出かけねばならんので、bewaad氏への応答はまたしても後回しです。コメント欄に書いてくれている方々への応答も後回しです。ごめんなさい。


以下、詳細。

信頼性について

 この論点、最初から的外れなのかもしれません。Jonah_2さんのエントリ、http://d.hatena.ne.jp/Jonah_2/20050122 を参照。どうも、産経新聞を「排除」という、僕とおおやさんが共有している前提自体が成立しない模様。

 その上で一応答えておくならば、これは端的におおや氏の誤解です。僕が眉をしかめていることは、「元・従軍慰安婦の発言を裏付ける証拠がない」といえばいいところを「デッチアゲである」という言い方になっていた、という点である。「ウソかホントか確定できない」というべきところで「ウソだ」といえば、随分意味が変わってしまっているし、「裏付ける証拠はない」というレベルの報道なら、僕はむしろ認める。*1(その意味で、「批判対象の正当性を前提しなくとも発言の侮辱性は判断し得る」範囲のことだけに言及したつもり。)

「強制力と結びついていないからいいじゃねえか」(意訳)について

 この意訳がそもそも大雑把すぎるせいで、この点についてのおおや氏の反論はためにする反論になってしまっていると感じる。強制力と結びついていないから(≒権力批判だから?)オールオッケイなどという粗雑な議論をしたつもりはない。整理しなおすと、重要だと思われるのは次の二点。第一に、強制力と結びついていないがゆえに、日本政府が法廷に出席することを強制できない。それゆえに公平性欠いている部分については、女性国際戦犯法廷の主催者に帰責できず、責任は日本政府にこそある。*2第二に、仮に正統な法廷として従軍慰安婦問題を問う法廷が開催されることがあるならば、日本政府は法廷に出席することを強制され、そのときには当然に防御を尽くすこととなるから、女性国際戦犯法廷とは違う結論が出てくることはあるだろう。そしてそれのどこに問題があるのか。

 以上の2つの根拠に基づいて、そもそも「法廷が開かれていないということ自体を問う」という問題意識を、擬似的な法廷という体裁で表現するに足る形式性は十分みたしていると僕は判断する。これに対しておおや氏は、あくまでも「本来の法廷の持つべき要件を欠いている」ということだけで押してこられる。その要件を欠くことで一体何がどのように問題なのかを具体的に示そうとはしていない点が僕は不満。最終的には「共和制ローマ」という伝統に根拠を求めるのだろうか?そんなことより、「法学史の教訓」の中身や「むしろ弱者こそ形式性を守らなくてはならないと、帰結主義的観点から強く思う」ことの根拠などを具体的に示してもらわないと反論にはなっていないと思う。

「いやあの時は政権の外にいましたから手続的保障を無視しましたが、今は政権担当者なのでそこをきちんとしなくてはならず、そうなると同じ結果は出せませんなああははははははは」とか言うのか。

 とおっしゃるが、正しくはこういうべき。「あのときは政権の外にいましたから政権は法廷を無視して防御を尽くしてくれませんでしたが、今は彼らを法廷に出席させることができて防御を尽くしてもらった結果、無罪放免ということになりました。はははははははは」。こうなる可能性はあるだろう(もちろん、ならない可能性も)。では、これで何が問題だというのだろうか?

「正義」から出発するか「自由」からか

私は人間は基本的に自由なのであって、それに制限を加え得るのは本人の同意が(間接的にせよ)ある場合に限るという立場である。前述した通り、正義も各個人の同意に基いて構成されるしかないし、国家の強制力も社会契約という本人の同意によって形成されたものだと考える。

 僕の方は、人間が基本的に自由であるためには、それを支える物質的条件が必要なのであって、最低でもそうした物質的条件に関わる客観的な正義というものが必要である。という立場です。これは人間が生物であること、およびその人格が物質的条件によって様々な制約・影響を受けること、という2つの事実から導かれる当然の立場だと考えています。これは当然、同意によらない強制を伴うこと(同意によらないことに対する先行的同意も必要としない)を主張します。たとえば立岩真也氏があちこちで述べているように、自由という価値から強制を引き出すことは可能であるというよりも、むしろ必要なことだと言いえるわけです。(たとえば、『自由の平等―簡単で別な姿の世界』。)

 だからおおやさんへの批判は、人間の自由の物質的条件を無視していること、となるでしょう。最低でも、こうした人間存在の基礎に関わる条件を、「同意」というものに預けてしまうべきではないでしょう。一応経済学を専門とする者の直感から言わせてもらうと、「正義も各個人の同意に基いて構成される」とき、その同意が同意であること以外の何の条件も付さないならば(つまり、その同意がなされる当事者間の力関係を不問に付すならば)、その正義は正義と呼ぶに値しないものになるはずだ。間違いない。同意だけに基づくルールというのは、単に人びとが持っている初期条件を反映したものにしかならず、そしてルールが初期条件を次の段階での初期条件を形作るから、初期条件の格差は広がっていく一方になる。そうならない場合というのは、初期条件で強烈に優位にある人が「人間の存在条件を確保するべし」という価値に対するすこぶる鋭い感受性を持っていて、しかもそれを実現する意志があるときに限られる。

 そんな儚いものであるなら、それは正義と呼ぶに値するのかどうか。というよりむしろ、それをわざわざ正義と呼ばねばならないのは一体どういう動機によっているのか。同意によって正義が作られるというなら、それは同意と言えばいいのであって、正義という概念は不要だ。わざわざ正義と言い換えるのは一体なぜなんだろうか?実際おおや氏が言っていることは、「大事なのは同意であって正義ではない」と言う主張を「同意=正義」という命題に基づいて言い換えただけのものでしょう。これこそ「正義の僭称」と言うべき事態だと僕には思える。

 「アメリカがイラクアフガニスタンの件で国際司法裁判所での審理に同意しないことに、仮に形式的な正統性があることは認めても、これを正当だとみなす人は、まぁ、いないだろう。」と述べておられるが、これは各国に留保された自由を行使しているだけなので正当である、と言わなくてはならない。

 これに対しては、とりあえず、そのような自由が留保されていること自体問題だと主張しますね。アメリカがイラクアフガニスタンで行っている行為は、一部メディアが指摘している問題が事実なんだとすれば、アメリカに審理の拒否権なぞ認めるべきではないのが正当であり、そうした拒否権が認められていることが正統とされていることは嘆かわしいことである。

以下蛇足について

さて。mojimoji氏が「そういう基本的事実を知らないことによって最初からお話にならないことなのかもしれませんけど。」と述べている部分についてだが、ええと、これは真に氏のことを思って言っていることを信じてほしいのだが、その通りであって一度ちゃんとした本で勉強されることを強くお薦めする。というか「どこでそんなこと聞いてきたの?」という感じ。

 どこからも聞いてません。単なる思い付きです。あまり拘るつもりもない話で、なおかつ、かなりの程度成立しないだろうという見通しで書いたものなので、思いがけず詳細な解説をいただいて正直儲けた気分です。てゆーか、考えてみると「お忙しいのにスミマセン」と言うべきですね。こういう無駄に突っ込みを誘う内容は以後控えます。

*1:ただし、裏づけとなる資料の欠如については、日本政府による行政文書の取り扱い方法そのものが問題である、というところまで言及するのでなければ到底公平とは僕には思えないが。

*2:もちろん、従軍慰安婦問題そのものが存在しない、というなら話は変わる。けど、日本政府は問題の所在については既に認めているよね。