モジモジ君のブログ。みたいな。

はてなダイアリーから引っ越してきました。

おおや氏「法廷と手続的正義」に答える

 出張先にも関わらず、懇切丁寧なお返事、感謝。
 http://alicia.zive.net/weblog/t-ohya/000148.html


 おおや氏の応答を受けて僕の思うことは、整理すれば次のようになる。「正統な」法廷というのは、「強制力を発動させるに至る論理を示す + その発動を実際に開始する」という二つの機能を持っており、求められる形式性もそれに伴って考えられているのだろう。しかし、民衆法廷というのは、後者の機能を持ちえず「強制力を発動させるに至る論理を示す」ことだけが目的であるから、同じ形式性を備えていなければならないとまで言う必要はない。おおや氏の指摘については、「法廷という形式をやめよ」と言うまでの強い根拠をもたらしているものだとは僕には思えない。とまぁ、こんな感じ。


bewaad氏の指摘については、また近いうちに別エントリで答えたいと思います。)


以下詳細。

公開性の問題

 まず、「記録が公開されている」ことが公開性の担保になるかどうかについて。

また、一般傍聴が制限されている以上、公表された記録が「時系列にそって一言一句を丁寧に記録している」かどうかの検証もできない。逆にこれも「公開できている」という主張の決定打にはならないということになろう。

 この検証ができないことは、通常の「実際の権力行使につながる法廷」であるなら致命的であるけれども、民衆法廷にといてはそれほどこだわるべき論点ではそもそもないと考える。というのは、主催者側が、強制力を行使できないのを承知であえてこうした企画を行う意図というのは、「(本来ならば権力行使につなげるべき)論理の所在」を知らしめることだからである。その意図からすれば、実際の法廷で示された論理と記録に記された論理が異なっていようはずもない。あるいは、仮に異なっているとしても、記録の方を主催者の意図とみてそれだけを元に議論して構わない。だから、実際の法廷と記録の一致という論点は、そもそも論点ではない。

 「発言の持つ意味や信頼性は文字に表現できる要素だけではなく、発言の文脈や雰囲気、そのときの発言者の態度その他とともに評価する必要がある」については、一応確認しておけば、選別されたとはいえ傍聴者はいるのだから、まったく伺いしれないということでもない。また、十分とはいえないかもしれないが、抄録のビデオも刊行されてもいる。あわせて評価することはある程度可能だ。

 後回しにしたが、産経新聞の取り扱いについてはおおや氏の指摘は考慮すべきだと思うが、それでも産経だけはずすという判断はありえると僕は思える。産経新聞がこの問題に関して、告発する側に批判的な立場を取っていることは周知の事実であるが、それだけでなく、しばしば批判以上の侮辱を公然と垂れ流してきたといわざるをえないレベルに達しているとも思われるからだ。一例をあげれば、「元・従軍慰安婦の発言を裏付ける証拠がない」という批判は、「元・従軍慰安婦の発言はデッチアゲである」というニュアンスに置き換えられる。あくまでも僕の心象であることは重ねて断っておくが、根拠をもってなされる正当な反論の域を超えて、元・従軍慰安婦への暴言自体を目的としているといわざるをえない域にまで達していた。(この点、事実と違う、と指摘されれば考えを変える可能性もあり。)

 これに対して主催者側は、ケチのつけられない公平を期すならば当然産経の取材も認めるべきだろうけれども、主催者たちは法廷の遂行と同時に、「元・従軍慰安婦の証言者をさらなる侮辱に晒すことを等閑視しない」というのも重要な目的と考えているし、それも理解すべきだろう。既に述べたように、実際の法廷と記録のズレという論点についても心配する必要はあまりないのだから、証言者への侮辱を公然と行っている新聞社を外すという判断は合理的であり得る。*1もちろん、同じことを、実際に権力を発動させる「正統な」法廷がやったら大問題である。

弁護人の問題

ええとご存知かどうか、国際司法裁判所で審理を行なうためには当事国双方の同意が必要で、日本は付託しようと提案しているのだが韓国が拒否している。それなら韓国の負け、にはできないわけ。

 これについては、むしろ国際司法裁判所がなぜ当事国双方の同意を取り付けねばならないのかの理由を考えるべきだろう。国内法と国際法で取り扱いが異なるのは、単に強制力を持った上位組織が存在しないから、という事実に尽きると僕は思うのだけどどうなのか。規範的なレベルで考えれば、訴えの内容がそれなりに信憑性のあるものならば(従軍慰安婦問題の場合は、あると思う)、どういう場合であれ当然審理に出席するべき。アメリカがイラクアフガニスタンの件で国際司法裁判所での審理に同意しないことに、仮に形式的な正統性があることは認めても、これを正当だとみなす人は、まぁ、いないだろう。むしろ、そこで同意を求めるシステム自体が「不完全だ」という主張は成り立つ。

 もちろん、「当時の国際法だけを使って審理した」という主催者の宣伝は、若干誇大だったということにはなるかもしれない。国際法レベルで民事訴訟法159条にあたるものは現在においてすら存在しないのだから。しかし、この点は民衆法廷が「結論に至る論理を示す」という目的を持っている限り、決定的な難点にはならない。というのが僕の考え。

(2004/01/24:もともと注に落としたつもりだったのだけど、文法ミスでそのようには表記されてなかったみたい。なので、本文との区別のために、囲み記事の形にしときます。)
もう1つ、違う考え方もできる。この法廷を、処罰されなかった罪状についての「東京裁判の再開」だか「やり直し」として位置づけるならば、日本は問題になっている戦争について無条件降伏したのだから、その戦争で行われたことについて法的に責任を問われるための司法の場に出てくることにも同意したとみなされないのか。だとすれば、当時の連合国が訴追しさえすれば、この法廷への参加には同意していることになる。で、連合国って、つまりは国連で、クマラスワミ報告によれば国連は以下のような内容を日本政府に勧告している。

日本政府は、以下を行うべきである。
(a)第二次大戦中に日本帝国軍によって設置された慰安所制度が国際法の下でその義務に違反したことを承認し、かつその違反の法的責任を受諾すること。
(b)日本軍性奴隷制の被害者個々人に対し、人権及び基本的自由の重大侵害被害者の原状回復、賠償及び更正への権利に関する差別防止少数者保護小委員会の特別報告者によって示された原則に従って、賠償を支払うこと。多くの被害者が極めて高齢なので、この目的のために特別の行政的審査会を短期間内に設置すること。/訳注7
(c)第二次大戦中の日本帝国軍の慰安所及び他の関連する活動に関し、日本政府が所持するすべての文書及び資料の完全な開示を確実なものにすること。
(d)名乗り出た女性で、日本軍性奴隷制の女性被害者であることが立証される女性個々人に対し、書面による公的謝罪をなすこと。
(e)歴史的現実を反映するように教育内容を改めることによって、これらの問題についての意識を高めること。
(f)第二次大戦中に、慰安所への募集及び収容に関与した犯行者をできる限り特定し、かつ処罰すること。
(クマラスワミ報告 http://www.jca.apc.org/JWRC/center/library/cwara.HTM

 国連が本気になったら、日本を訴追できたりはしないんですかね?いや、僕は国際法の知識はほとんどないので、ポツダム宣言受諾の効力というものがどの程度強いのか、どこかの時点で精算されて少なくとも2000年時点で法廷を開くことの根拠にはなりえないものなのか、そういう基本的事実を知らないことによって最初からお話にならないことなのかもしれませんけど。))

 「アミカスキュリエ」については、学術的な話はよく知らない。勉強になりましたので感謝。しかし、幾つか考えられることはある。第一に、日本政府が法廷に出てこない以上、ある意味どうしようもないことではある。この点については、主催者だけに帰責できない。第二に、繰り返しになるが、法廷主催者が実効的な権力を発動させる可能性がそもそもないわけで、それでもあえて法廷を開く理由は「そこに(実効的な権力が発動されるべき)理由がある」という論理を示すことそれ自体だ。だから、主催者が、出席しない被告のために防御を尽くさないのであれば、それは出版されている『記録集』の中に現われるだろうし、そうであるなら国際女性戦犯法廷の意義そのものを失わしめるのだから、それなりに真剣にやるだろう。もちろん、それを鵜呑みにする必要はなく、異議があるなら、国際女性戦犯法廷の『記録集』に即して内容に踏み込んで堂々と反論すればいい。そして、それこそが主催者の本望とするところだろう。

 ついでに第三、「「法の不在」を補償するための「民衆法廷」が、法における実質的正義の不在を回復するために作られたエクイティの理念を真っ向踏みにじっているということか」という指摘は、仮にこれを真に受けたとしても当てはまらない。民衆法廷は権力の行使を伴わない以上、仮にそれをエクイティの理念を踏みにじっていると言い得るとしても、少なくとも「権力行使を伴う正統な法廷」がエクイティの理念を踏みにじるのとは別の形にしかなりえない。その区別を示さずにひとくくりに「踏みにじる」と表象するのはいかがなものか。簡単に言えば、民衆法廷に対しては、内容に即した反論をすれば回復できるものであるのに対し、実際の権力行使を伴うものではそうした回復はできない。この違いを曖昧にした批判は、僕にはゴマカシに思える。

 以上の理由から、おおや氏の指摘する欠陥は、主催者が法廷という形をとって主張すること自体を諦めるべきである、とまで言うにたる重大なものだとは僕には思えない。

形式と正義

 さて最後に、上述の欠陥が事実であったとして、しかし「正当な法が機能していない」からなお許容される余地があるという主張についてだが、まあこの点は反論しても不毛かな。つまり上記主張は「この場合に機能する法が存在するべきである」ということを示す正義が、評価対象となる法とは独立に存在することを前提している。しかし私は「正義は(主に法的な)手続きを通じて構築される・示されるものである」として独立した正義の存在を認めない立場であるから、そもそも前提を共有していない(なおVAWW-NET Japan声明も「普遍的正義」とか言及している。しかも「民衆法廷」で明らかにできるそうな。素晴らしい)。

で。「じゃあお前のその立場を正当化しろ」と言われれば私としては「『規則とその意味』をお読みください」としか言えない。

 これについては残された論点、ということで。ひとまず、「上述の欠陥が事実であったとして」の内容について反論したので、この論点はとりあえずは残されたままでもいいのかな、と思います。「規則とその意味」はいつか読ませていただきたいと思いますが、それにしてもこの論文膨大すぎますよ(泣)

*1:問題の番組におけるNHKの取材に対しても、相当突っ込んだ注文をつけたらしいが、その第一の理由は「証言者の名誉の保護」らしい。これは法廷であると同時に、彼女たちに寄り添おうとする運動でもあるから、こうした配慮は「特段の問題を引き起こさない限り」最大限に配慮すべきで、主催者は法廷運営者としての責任と運動家としての責任の折り合いをどうつけるかについて真剣に考えているとむしろ僕は思う。