モジモジ君のブログ。みたいな。

はてなダイアリーから引っ越してきました。

女性国際戦犯法廷の形式的な批判について

 NHKと朝日新聞を巡る騒動とは異なる次元の論点であることには注意しつつも、やはり女性国際戦犯法廷そのものへの批判はそこかしこで見られる。「シンパシーを感じる」と明言したわけだし、その批判の内容次第では僕も旗を持ち替えねばならないのだから、それらへの見解を述べる必要もあるだろう。


 まずは、『おおやにき』のこのエントリの後段。
http://alicia.zive.net/weblog/t-ohya/000146.html

ところで、ことの発端となった戦犯法廷と称するものについては、一般傍聴を認めていない・弁護側代理人がいないなど手続的正義を大幅に欠いていることが批判の対象となっているわけだが、これについてそもそもプロパガンダなんだからいいじゃねえかという意見あり。しかしこう、例えば疾病を治療する場所で病院または診療所でないものには「病院」という名前を付けてはいけないわけである(医療法3条1項)。何故かというのは明白で、こういう名称独占規制がないとすると、利用者の側からどれが信頼できる治療期間でどれがそうでないかを見抜くのは(資源の有限性や知識格差から見て)困難だからである。「法廷の判決」というのも通常は一般人がそれに一定の権威性なり正当性なりを認めるものであるから(という風に一応は期待しておきたい)、その資格のあるものとないものが混在するのはやはり問題である。・・・・・結論に賛同するかどうかは別として、法廷の権威というものを信頼しそれに依存した商売をやっている我々法律家としては、「法廷という言葉は使うな」、少なくとも「法廷と称して恥ずかしくない手続的正義を整備してからにしろ」と、やはり怒らないといけない気がする。

 とりあえず、以下のような理由。

一般傍聴を認めていない件

 全面的な一般傍聴を認めるのがベストなんだろうけど、当時、従軍慰安婦の論点で政府を批判する集会は暴力的な右翼シンパが出没してた頃で、事故を避ける必要性との間で主催者も悩んだだろうと僕なんかは想像する。実際、別のイベントでは、参加した女性に暴力を振るうなどの事態も発生していたわけで。

 となると、警備員をつけてでも一般傍聴を公開するのか、あるいは傍聴制限をかけるかの選択になる。そのへん悩む必要のないお上の法廷とは違い、民衆法廷は持ち出しとカンパだけで運営しているのだから、そこはもう一段厳しい状況でのトレード・オフの判断になりますね。一般傍聴を認めない件については、それを賢明な判断だと評価しうる状況が当時はあったと思う。

 と同時に、一般傍聴がないことの弊害がどのように避けうるかといえば、それは裁判の内容を事細かに公開することによって、かなりの程度なしうるだろう。これについては、このブログでも何度か言及している『女性国際戦犯法廷の全記録 (日本軍性奴隷制を裁く―2000年女性国際戦犯法廷の記録)』、『女性国際戦犯法廷の全記録〈2〉 (日本軍性奴隷制を裁く―2000年女性国際戦犯法廷の記録)』を見ればいい。『全記録Ⅰ』の方は、裁判実施の模様を、時系列にそって一言一句を丁寧に記録している。『全記録Ⅱ』については、起訴状や判決文が、やはり記録されている。*1

 事後的な傍聴さえ可能になっている、およそ考えうる限り完全を期した公開をしているわけで、お上のやってる裁判の方がその意味ではよほど不透明ではないかとすら僕は思うけどね。ここまで徹底した代替措置を持っている以上、「一般傍聴を認めていない」ことが法を名乗る上での形式性を欠いているとする決定打にはならないと考えるのが妥当だろう。

弁護側代理人がいない

 これについては、「呼んだけど来なかった」に尽きる。そりゃ来るわけがないの分かってて呼んだんでしょ?と僕も思うが、おおや氏が問題にしているレベルの形式性に限って言うなら、このアリバイだけで十分な反論になっている。であるから、おおや氏にとって「少なくとも私はそれなら苦笑いで済ませるくらいになり、怒りはしない」程度の話であるよ、ということになろう。



 それでも納得はしないだろうという理由をもう一つあげているので、それについても考えてみる。

つまり私の言いたいことはほぼこれに尽きる。プロパガンダならアゴラに出て行け。法を、あるいは「法」という言葉を、そのために利用するな。このようなやや厳格な分離主義の正当化が十分にできているとは自分でも思っていないが、とまれ私のスタンスはこのようなものである。

 こうした分離主義に人々が納得しなければならない理由があるとすれば、現実に法がきちんと機能していることである。法があるべき場所には、きちんと法の力がもたらされているならば、その状況に混乱をもたらしてまで法を「僭称」することには問題があろう。

 しかし、そもそもこのような民衆法廷が開催される理由というのは、正当な法が機能していないことにある。とりわけ従軍慰安婦問題については、オランダ人に対する事例を除き、法的責任を一切問われておらず、その調査さえ日本政府はしない(それどころか、妨害さえしていると取られても仕方のない状況さえある)。問題にされているのは、恣意的な「法の不在」なのであり、そのような行為がまかり通っている以上、法を僭称しているのはむしろ政府の側であるという理屈は十分説得力を持っている。

 プロパガンダのために法という言葉を使うな、というのであれば、プロパガンダのために法を意図的に不在にさせる人々も同じ理由で糾弾すべきだ。おおや氏の非対称な態度は、法を守ろうとするよりもむしろ、結果的には政府が行使するものとしての法だけを守ることにしかならないのではないのか。

*1:通読をしていないので、「何時から何時までの話は省略」といった記述がまったくないのかは知らないけど、とりあえずざっと見た限りでは全文記録してあるという印象。まぁ、ここまで詳細な記録で中途半端な省略をして価値を著しく低下させているとも思えないけども。