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非正当の法の存在と正当の法の不在

(2005/01/22追記 「正統」と「正当」の使い方がめっちゃめちゃですね。はずかし。「正統」で適宜言い換えた方が良いところが多々ありますが、とりあえず直さずそのままにしておきます。文脈に注意しながらお読みください。タイトルも、「非正統の法の存在と正統の法の不在」かな。)

インタラクティヴ読書ノート別館の別館
http://d.hatena.ne.jp/shinichiroinaba/20050119#p2


http://d.hatena.ne.jp/mojimoji/20050115#p1

これなんかもアイロニカルなサポートなんですが、やっぱり伝わりにくいだろうし、何より当事者たちにはこういうセンスがどれくらいあるのやら。いえ、「法廷」作った人も「偏向」批判する人も。

この民衆法廷そのものは真面目に取れば「人民裁判」を思わせてぞっとするわけですが、どうせプロパガンダなんだから堅いこと言わんでええやん、というのもわかる。でもそういう形での援護って、きっと喜ばれないどころか逆ギレされそうだし。

 僕などは、民衆法廷人民裁判を感じてぞっとするならば、どうして従軍慰安婦問題に関しての恣意的な、徹底した法の不在の方にはぞっとしないのか、むしろそちらの方が不思議なのである。もちろん、「人民裁判」という感想自体、女性国際戦犯法廷の「記録する」ということにかける情熱の大きさを考えると(問題の『全記録』は総計800ページを超えてます)、賛成できないものではあるわけです。もし、こうした記録の中身を踏まえないでの感想であるならば、ちと迂闊な感想なのではないかと思う。
 先のエントリで批判したおおや氏についても、正当な法が(少なくとも従軍慰安婦問題に関して)そもそも役割を果たしていないという事実をどう評価するのかを抜きにして、非正当の法がしゃしゃり出てくるなという発言をするのである。

 こうした傾向は、稚拙な右翼とは違う形で、それなりに聞くべきものもある左翼批判を展開する人たちに共通して見られるものではないか。僕は結構前からそんな風に思っている。(たとえば、仲正昌樹の「こんな連中にまかせていたら、自民党よりもっとひどいことになる」というような言い方にも、同じものを感じる。)



 あと、アイロニカルなつもりは全然なかったのだけれど(笑)、たしかにアイロニカルなのかもなぁ。ただ、筋の通った話をしたつもりではいるから、結果的にアイロニカルかもしれないけど、それはそれでいい。それよりも、稲葉さんが危惧している「何より当事者たちにはこういうセンスがどれくらいあるのやら」という点については、2点言いたい。

 1つは、付き合ってみれば、そういうセンスを持った人は結構沢山いますよ、というのが僕の実感。僕のストライクゾーンはかなり広いらしいのだけれども、それを割り引いても。もちろんそういうセンスのない人もいましたけど、どちらかといえば、「そういうセンスしか持っていない」経済学プロパーの人が沢山いるというのもどうかと思うので、ある意味どっちもどっちではないかと思う。2つめは、「当事者たち」とおっしゃるけど、僕ら当事者じゃない人なんていないんじゃないですか、ということ。もちろん、「当時者」の定義によるんですが、そういう杓子定規な話じゃなくて、「皆が誰でも自覚していることはわざわざ注意せず、皆が忘れそうなことを思い出させるような振る舞いを心がけること」は、僕らのような仕事をしている人間の芸の一部ではないかと常々思います。そういう意味でいくと、ここでさくっと書かれている「(私ではないことを示唆する)当事者」という言葉の前を通り過ぎるわけには行かないなぁ、という気持ちになります。