モジモジ君のブログ。みたいな。

はてなダイアリーから引っ越してきました。

paroさんへの回答。その2

僕は、基本的には売る心配のない人間ですから、おそらくは女性であろうparoさんとはちょっと感覚が違うのかもしれません。だから、(笑)といった表記にはつい、敏感になってしまいます。ここを、実際に性労働に携わっている人が見るかもしれない、と思うと、少しでも彼女たちを傷つける可能性のあることは避けたいという気持ちもあります。ご理解ください。

>だから、危険にしておく方がよい、という意味でしょうか?それならば反対します。


それでは、斡旋業者が間にいるから安全だというような幻想を持たせる発言は、控えて下さい。

人によりけり、ということはまず述べていたと思います。場合によっては街娼するより危険をもたらすヒドイのもいることも示唆していたと思います。「業者は、商売のためにかなり無理な客取りをすることもありえる」というのも、業者次第なんですよ。大半の業者がダメな業者だろうと、僕は踏んでいます。しかし、こうした仲介行為を禁止する根拠にはならないことは確認してよいことだと思います。仲介業者のコンプライアンスをきちんと確保する方が良い、という可能性は十分あると思いますよ。

そういうことをきちんとする業者しか許可しない。無許可営業に対しては、厳しい取り締まりも必要になります。
それ位でなければ、業者がいる方が安全だとは言い切れません。

僕としては、まったくそのように述べているつもりです。

このあたりの問題なのですが、現在の奨学金制度を、どのように変えていこうとなさっていますか?

国連人権規約(だったかな)でも、高等教育については漸進的に無償化すべき、と明確に謳われています。ヨーロッパは無償化の方向性を取っているし、アメリカは曲がりなりにも給付による奨学金をかなり整備しています。貸与奨学金は、実は僕の念頭にはありません。(ないよりはあった方がいいのでしょうけど。)

>広告の規制くらいはあってもいいんじゃないでしょうか?タバコですら規制を受けていますし。


性労働者募集広告の制限をするべきだということですね?

反論があれば、根拠次第では撤回しますけど、現時点ではそうすべきだと考えていますね。そもそも、ポルノグラフィについても僕は野放しにしてよいとは考えていませんから。

性差別を規定の事実として問題視しない発言のあり方(結果としてそれを肯定するのとほとんど同じように機能している発言のあり方)については、批判があっていいと思います。ただ、規制というのは無理でしょう。表現の自由を尊重すべき、という意味ではなく、規制することが可能ならそれは多数派によって支持されているわけで、それは既に規制する必要がない状況を意味します。ので、規制を考えることは、できないというよりもナンセンスなんじゃないか、と。(だったらどうするんだ、と聞かれても難しい問題ではあるのですが。そこまでは今はご勘弁。なんとかしなくちゃ、という問題意識くらいは共有しているつもりです。)

>その人は、泥板が流れてきたとしても、救われるんじゃないですか?


いえ、その泥板に全身を預けたとたんに体勢が崩れます。

比喩の上でイメージを操作しても、具体的に対応するものがなんなのかが分からないです。

相手の体の、とりわけ生殖器という生命の根源につながる部分の粘膜を接点として使用して、自分だけの欲望を満たす行為ですから、相手を人間として尊重していたら出来ることではありません。

第一に、僕は生殖器の問題は関係ないか、あるとしても二次的なものだと思っています。手や口で行われる場合にも同様だと思いますので。第二に、他者から尊重されていない人にはそういうことが分からないことはあるだろうということ、そして性労働者自身もそういう人に対してサービスするときには異なった感情を抱きえるだろう、ということは想像できることです。だから買春を認める、というのではなく、こういう買春の中の多様な現象を見据えながら、それぞれに対してどう述べていけばよいのかを丁寧に考える必要はあると思っています。



障害者の性については、次のようなエントリを書いています。
http://d.hatena.ne.jp/mojimoji/20041010

まずは、こういう立場です。今、現時点で「障害者の性」を理由に買売春肯定論をぶたれたとしたら、ここに書かれたような根拠で反対するでしょう。しかし、再反論とその根拠次第では撤回しうるものかもしれない、とくらいは思っていますし、買春について気になっていてまだ考えるべきと思えることは幾つか残っています。そういうことはこれからおいおい考えて、書いていくでしょうけれども、ね。だから、現時点で買春の背後にあるものを全否定はしません。



少しキツイことを言うならですね、僕とparoさんの違いは、買売春に対する態度の違いであるというよりは、自らが間違っているかもしれない、という当然存在する可能性についての態度の違いだと思っています。現時点で、明日までに何らかの政策を提案せよと言われれば、僕はスウェーデン流の買春禁止法を軸とした提案をするでしょう。そのへんはparoさんもたぶんそう違わないでしょう。

しかし、それはどの程度責任と覚悟をもって提案する内容かと聞かれれば、僕の勉強はまだ全然足りないと言うほかないですね。僕はそのことを正直に述べているだけです。買春禁止をしない方がよいかもしれない可能性は幾つかありますし、その点についてちゃんと考えてみる必要はあると思っています。paroさんがそうした逡巡さえも買売春肯定論の走狗として敵視する(失礼)ように見えるのは僕からすればとても遺憾なことだし、そのような立場の取り方・建て方自体が問題の改善を難しくしているのかもしれませんよ、という危惧も持っています。

とにもかくにも、長々お付き合いいただきありがとう。今後も何かあれば発言してください。