モジモジ君のブログ。みたいな。

はてなダイアリーから引っ越してきました。

paroさんへの応答

 僕の懸念と、paroさんの指摘した問題について、少なくとも3つの位相の異なる問題が混ざり合っています。これらはそれぞれが大事な問題ですが、区別して論じなければならず、また、それぞれに異なる答えを出すことが可能です。まずは、その3つの分類。

  1. ホストにはめられるなどの場合。(僕が懸念したこと)
  2. 売春を拒んだときの、選択肢の貧困さの問題。(paroさんが第一に指摘している問題。)
  3. 最近の、インド洋地震被災地での児童誘拐。(paroさんが第二に指摘している問題)

少し迂遠な話からはじめます。僕は(そして経済学の理論としては)、複数の選択肢の中から本人が選ぶことは、少なくともその人にとって(可能な選択肢のうちの)最善の選択肢であるとみなします。だから、女性の選択肢があまりに貧しく、人生の可能性があらかじめ奪われていることは問題であるとしても、買売春の禁止はその可能性をさらに狭めるだけである。買売春を行うことへの自己決定は手放しに賞賛されるべきことではないとしても、その選択肢を奪うことはまた別の話である。

この状況で僕が提案することは、買売春への制限や禁止ではなく、女性の選択肢を拡大するような、別の政策です。職業訓練や高等教育を受ける機会を広げ、女性の就業上の不利をなくす制度を整えること。女性の選択肢を拡大していけば、paroさんの言う「売春という待ち受けられている職業に就かなかったことへの罰」は相対的に小さくなります。ある段階ではゼロにもできるものだと思っています。ですから、少なくとも、paroさんの指摘の第一を根拠とするならば、買売春を否定するという論理は出てきません。それは社会保障の拡大や教育の無償化など(買売春の領域とは一見無関係に見える)領域の政策で対応すべき、という結論に、多分なると思います。*1

3つめの問題、児童誘拐については、合法的市場に限らないならば、市場とは常に存在しているものですから、買売春に対してどのような態度を取るかは基本的に関係がありません。(ただし、買売春が合法化されているときに児童誘拐・買春が増大するならば、そのメカニズム次第では買売春そのものを否定せざるを得ないかもしれません。これは考えなければならない論点ですが、今のところ、僕は決定的なデータもロジックも持っていません。)

これに対して、僕のロジックでは対応できないと既に今の時点でも懸念せざるを得ないものが、1つめのケースです。形としては、この人は自分で性労働に従事することを選んでいますから、「少なくともその人にとって(可能な選択肢のうちの)最善の選択肢であるとみな」すわけです。しかし、それはちょっと考えてみただけでもあまりにも杓子定規な考え方でしょう。むしろ、人は自分にとっての最善の選択肢を選べなくなるような、そういう状況に陥ることもある、と理解した方がいいかもしれません。売ることが可能になっているがゆえに狙われ、はめられるのであり、いわゆる自己決定論が想起する、尊重されるべき自由意志のイメージとは遥かに異なっているのですから。このように、僕の懸念というのは、かなり論理的に厳密な論点です。

*1:ただし、そのような買売春の領域とは離れたところでの対応ではどうにもならない何らかの別要因があるならば、そのときにはまた別の話です。少なくとも、今ここで述べた範囲においては、そういう結論にならざるを得ない、という話です。