モジモジ君のブログ。みたいな。

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社会運動のマーケティングについての覚書

 社会運動を広めていくための戦略。これが社会運動のマーケティングというわけなんだけど、通常のマーケティングと比べて、その扱う対象がそもそも違うということを指摘する必要があるだろう。通常のマーケティングによって提示される商品の場合、マーケティングの対象たる人々と商品の間に、必然的なつながりは存在しない。マーケティングされる人々の中のニーズに向けて、「あなたの欲しいものはこれなじゃいですか、これですよ、きっとそうだ、これにちがない」と訴えかけていくものだ。そこで、人々と商品の関係は「作られる」ものだ。

 これに対して、社会運動というのはまったく違う。僕らは社会問題と直でつながっている。たとえば、イラクへの自衛隊派遣が日本政府によって行われており、僕らはその日本政府に対する主権者である、という具合に。通常の財やサービスのマーケティングでは紹介された対象と自分の間の関係というものは主体的に選び取られていくのに対して、社会運動と私たち個々人の関係と言うものは、そうしたものではない。はじめから、そのようにそこに存在している関係だ。*1

 僕らは単に、その関係に気づきさえすればいい。そして、気づいてしまうならば、社会運動を先に担っている人達が自分にとって気に入らないとしても(そのマーケティングが、商品のマーケティングとして見るならば稚拙だとしても)、そんなことはまったく問題にならない。その関係にちゃんと気付いているならば、不満があろうとも何かやるだろうし、逆にいえば、行動を起こさないのは、その関係を意図してるかしてないか知らないけど、いずれにせよ無視しているからだ。だから、まず、僕らは社会問題の存在をただ言う、というだけで、マーケティングとしては成立している。別に、お客さんの気を引くような何か真新しいことを「やるな」というわけではない。ただ、そうでなければマーケティングとして成り立っていないというわけではないのだから、稚拙なマーケティングを批判する必要がそもそもない、ということを言いたいわけだ。

 kunioさんの言う「若者を取り込むには、都内23区的なかっこつけ強いなポジションも揃えてあげたほうが良い」というのには、とりあえず賛同する。そういうことを考えたマーケティングも、する人がいるなら、それは止めない。しかし、少なくとも、そういうことを考えないマーケティングがあるとして、それへの批判は当たらない、必要ない、ということだ。

 で、実際に、アナクロでカッコ悪いデモが嫌いな若者たちは、「ピースウォーク」なる新しい言葉を作って別の運動を生み出した。それはそれで評価されてよいことだと思うし、そういうマーケティングをすることは褒められてよいのかもしれないけれど、既存の運動家がその邪魔をした、ということはとりあえずないわけだし、ピースウォークの若者たちとて、デモオヤジのカッコ悪さをイヤだと思いつつも、少なくとも問題の所在をそこから発見したのではないか、と僕は思ってる。なので、基本的に、Anything goesなわけで、新しい試みを否定しないけど、かといって古いやり方を止める必要もない。実際、最近のデモに出て行くと、両方がそれなりに共存してやってますよ。*2

*1:一応、主体的に選び取る、というより主体的に拒否することは可能だ。つまり、徐京植さんが言うように、自らのパスポートを破り捨てて国籍そのものを拒否するならば。

*2:ただ、僕はピースウォーク的な物への批判は、それはそれとして別に持っています。これはまた後日。