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緩い社会運動家の仁義

 僕もいろんな問題に首を突っ込んではいて、しかし、実働戦力(あるいは労働力)として参加することはあまりできず、少々の寄付を送ったり、休日に駆けつけたり、後はブログでワイワイやるくらいのことしかできない。本当にたいしたことはまったく出来ていない。これは社会運動に関心を持つ多くの人にとってそうだろう、と思う。僕が「緩い社会運動家」というのはこういう人たちのことだ。

 僕らがそういう状態の中で、実のところ運動の中核を担っているのは、かなりの程度私生活を犠牲にしながら運動に関わっている人たちである。元々そういう時間の融通の効く人もいるし、決してそんなわけではないがやむにやまれずやっている人もいる。仕事やめちゃった、なんて人すらたまにいる。実のところ、そういう犠牲を払う人がいなければ、ほとんどの社会運動が立ち行かない。*1

 そういう人たちを前にすると、僕のような緩い関わり方をしている人間が後ろめたさを感じるのは事実だ。これは他の人も感じる感覚だと思う。挙句、「そこまでする必要はないだろ」と誰に頼まれたわけでもないのに相手の心配を始めたりする。本当に心配する気持ちがないわけではないが、そのような発言の幾分かは後ろめたさであるというのは確かだと思う。僕らは結構、負担の格差について敏感なんだよね。良くも悪くも。

 その一方で、運動の現場でそれなりにおかしなことがまかり通っていることはよくある。人間のやることだというだけでなく、社会運動なんてやる人を探すのが難しいくらいなわけで、当然のことながら同業者との競争なんてない。だから、おかしなことがあるのも当然といえば当然だ。デモにいけば、大抵はうなづけない変なシュプレヒコールの一つや二つはある。よく分からない左翼用語を連発してマイクを離さない人もいたりする。こんなことは小さなことで、そもそも運動の進め方の大局的なところで意見したくなるところもある。

 こういうときに、意見することをやめてはいけない。よくよく考えた上で、やはり運動がマシな方向に行くために、意見はきちんとしなければならない。しかし、それは、緊急医療室で医療政策について語るような場違いな振る舞いであることはまず自覚しておかねばならない。その上で、僕なりの注意点をいくつか述べてみたい。

  • まず、身銭を切って運動の旗を振っている奴が一番エライ。不正をしているならともかく、運動の仕方として稚拙だとか、そういう方法論の面でおかしなことをいくらしているとしても、とにかく自己負担で運動を担っている人が一番エライ。意見を言うとしても、それを必ず踏まえておかねばならない。それが認められないような奴は、自分で運動を立ち上げろ。
  • その問題について勉強してから発言しなければならないのは当然のことながら、運動の先頭にいる人たちに同等の勉強量を要求するな。これは案外よく忘れ去られる。運動の先頭にいる人たちは、そもそもその運動のために勉強する時間すら奪われている。その条件の格差を考えずに運動家に議論を吹っかけるような奴らは単に邪魔をしてるだけだ。(とはいえ、大抵は運動の先頭にいる人たちの方がよく勉強していたりもする。むしろ教えてもらうことの方が多いよ。)
  • できるだけ、運動を担う人の負担にならないような方向で勉強する。「勉強した結果こんな風に考えたんですけど、どう思いますか」とか質問するのは、まだマシかもしれないけど、その質問に答えることすら大変なんだよね。実際。考えられるこを考え抜けば、イエス・ノーで答えられるような質問にまで徹底的に洗練することも可能だと思う。どうしても知りたいことがあるなら、図書館にいって、できる限りやってみてから。
  • その上で運動家に直接語りかけるとしても、自分もまた確信をもって批判することなどできはしないのだから、相手を尊重すること、それをハッキリと表明することだ。「尊重しないつもりはない」ではなく、「尊重していることをハッキリ示す」ことだ。まずは「お疲れ様です」から話をはじめることは実際不思議なことでもなんでもない。

 まだあるかもしれないけど、この程度で。けど、重ねて言うけど、運動家を無批判な対象に祭り上げてしまってはならない、ということもとても大事なことだ。

 実のところ、たいしたことは言っていない。ただ、必要なことのために金や時間を負担している奴に対して、負担していない奴が取るべき態度がある、というだけのこと。そう言うことが分からない人こそ、『お金に「正しさ」はあるのか』を読むべし。

*1:プロ市民」などととんでもない中傷をされることすらある。共産党から日当いくら出ている、とか、ね。それは嘘だ、ということももちろんあるんだけど、本当に出しているんなら、僕はむしろ共産党を支持するなぁ。問題はその運動の主張が筋が通っているかであって、担う人の負担を軽減するような何かがあって悪いわけじゃない。