モジモジ君のブログ。みたいな。

はてなダイアリーから引っ越してきました。

誰のための靖国か

この問題は、このところいっつも対中関係の懸念としえ語られる。そうでなければ、首相の参拝が公式かそうでないか、という文脈。なんでそう的をはずし続けるのか、わざとやってんのかとすら思う。この問題は、第一義的にはわれわれの信教の自由、良心の自由の問題である。たとえば次のような。

1968年1月12日、陸上自衛隊岩手地方連絡部釜石隊員募集事務所長代理の中谷孝文さんは、募集業務の帰途、交通事故死をした。公務死とされ、殉職扱いされた。

妻の康子さんは故郷の山口に帰り、自分の信ずるキリスト教の信仰のもと、夫を失った悲しみを乗り越え、懸命に日々を生きていたが、4年後のある日、突然自衛隊山口地連の自衛官が訪ねてきて目的も明らかにせず、孝文さんの除籍謄本がほしいという。自衛官の訪問はこの後も殉職証明書がほしい、孝文さんの勲章と位階を見せてほしいと続き、疑問にかられた康子さんが再度目的を訊ねるとはじめて、自衛官の殉職者を護国神社に合祀するためだと明かした。

クリスチャンとして、夫の遺骨も教会に納めていた康子さんは、その場で合祀を断わった。中谷家を訪問した自衛官は上司にその旨を伝えると約束したが、山口県出身の27人の殉職自衛官の合祀祭を執り行なう旨の隊友会山口支部連合会長と山口県護国神社宮司連名の案内状が配達されてくる。康子さんは再度その自衛官に電話を入れ、合祀拒否の意思を伝え、自衛官も「わかりました」と答えたにもかかわらず、彼女の意思は完全に無視され、夫の孝文さんは他の26名の自衛官とともに合祀されてしまう。

孝文さんの合祀の経緯からして、騙まし討ちとしかいいようのない所業である。
(世相百断 http://www5a.biglobe.ne.jp/~katsuaki/sesou50.htm

大事な人の死にどのような意味を付与するのかは、残された人がその後の人生を生きていく上で極めて重大なことだ。それを国家が簒奪するのがこの靖国という装置である。小泉にしろ安部にしろ、この中谷康子さんに対面することがもしあるならば、一体どのような言葉を吐くつもりなのか。