モジモジ君のブログ。みたいな。

はてなダイアリーから引っ越してきました。

個人的選択と社会的選択

(2003年5月18日の日記。一部改変)

 「デモに行っても世の中は変わらない」といわれるし、「だから私は行かない」と言う人もいる。こういう人たちは、自分たちの行動によって実際に変わるか変わらないか、というのを行動の基準にしている。すごく合理的なようにも見える。しかし、何か変だ。と最近思う。

 私たちは民主主義社会に生きている。国家のリーダーですら、個人として勝手に法を制定したりすることはできない。もてる権限の大小には違いがあるものの、ここまで厳格に「一人ではできないように」規制をかけているのが民主社会というもんだ。「個人が個人のままでは無力だ」というのは、民主社会の本質といってもいい。これはつまり、「私たちの個々の行動は、それだけでは社会を決定しない」ということでもある。これは、民主社会の本質でもある。個人が個人の力だけで社会的決定を行えるようになるならば、それは既に民主社会としては壊れはじめている。他方、個々人の行動が十分に大きな流れを作り出すとき、その流れは実際に社会を変えていく。その意味で、私たちは確かに社会を決定しているし、まったくの無力ではない。

 そう考えてくると、冒頭の一見合理的な考え方というのは、民主社会における行動原理としてはまったくナンセンスだ。というのは、この原理にしたがっているならば、私たちがなしえる行動は1つもないことになるからだ。何かをなしえるのは、多くの人が既に動いていて、後は私が動けば状況が変わる、というそういうターニング・ポイントにおいてだけ、ということになる。火を見るよりも明らかなことは、誰もがこうやってターニング・ポイントを待っている限り、そのようなターニング・ポイントは永久にやってこない。だから、行動の結果の実効性によって行動をする/しないを決定することは、民主社会において実際に私たちがなしうることを一つ残らず否定することになる。民主社会をナンセンスなものにしてしまっている。言い換えれば、行為の結果として変化がなければ意味がないと言う人は、論理的に言って「民主主義者ではない」と言うべきなのだ。行動の結果を見通して自らの行為を決定すること。このような評価基準は、民主社会において行為の有意味性をゼロにしてしまうという意味でナンセンスなのである。

 ここで逆に問おう。民主社会における有意味な行動決定原理とはどういうものか?先ほども述べたように、「個々人の行動が十分に大きな流れを作り出すならば、その流れは実際に社会を変えていく」のである。つまり、私たちは個々人の単独の行動だけでは社会を決定できないが、社会がどのような方向に決定されるかという流れに加わることができる。ある変化の方向への流れに加わる。あるいは別の方向への流れに加わる。あるいはどこにも流れないように現状維持の立場に加わる。そして、そうした人々の選択が、やはり最終的には世界を決定していく。私たちの行動は、世界を決定しないが、世界を自らの選んだ可能性に向かって開くということは言えるのだ。

 こう考えた上で1つの可能な判断基準は次のようなものになる。すなわち、自らの行為が(実際には世界を変えないとしても)どのような方向に向かって世界の変化の可能性に開いているかという基準である。結果としてそのように世界が変わるかどうかは、他の人々の決定との相互関係によって決まる。そのような相互関係の中で「私は」どのような方向に向かって世界を押し出すのか。そのことによって自らの行為を選択する。これは1つの可能な基準である。そして、これ以外の基準を構想することは相当困難である。だから、これが、民主社会における行動原理として、今のところ知られている唯一の有意味な基準なのである。ゆえに、行為の結果に拘る「一見」合理的な態度は、単なる怠慢の言い訳に過ぎない。