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デモという無意味の意味

(元ネタは2003年5月5日の日記。若干書き換え)

 ある人が、デモに行くような人を「凝り固まった人」と言っていた。そういう人も確かにいることはいるとは思う。・・・などと、日和見な同意をする前に、まず言っておかねばならないことの1つは、この場合の「凝り固まった」とはどういう意味なんだろう、ということだろう。

 何もしない人の多くが言う。「何をしても状況は変わらない、変わらないなら意味はない」と言う。確かに君はデモに行ったが、何も状況は変わらなかった。それ見ろ。というわけだ。しかし、夢物語と言われようと何と言われようと、次の事実は指摘しておかねばならない。全員がデモに出かけていくならば、世の中変わらないはずがない。なんといっても、私たちの国は民主主義の国である。そういう事実である。それだけの人間が動けば変わらないはずがない。しかし、動かない。動かない理由は、「きっと周りのヤツが動かないから、私一人が動いてもきっと物事は変わらないだろう。だから、動くことには意味がない」と(ほぼ)全員が考えるからだ。その結果として大多数が実際に動かない。

 これは、奇妙といえば奇妙なことだ。多くの人が状況を変えたいと思っているとしても、「きっと周りのヤツは動かない」という予見によって、動かなくなるわけだ。だとすれば、民主主義なんぞに一体何の意味があるんだ?

 さて、ここで、論理的な意味において、私たちは少なくとも2つの立場のうちから1つを選べることを確認しておこう。1つは、「何をしても変わらない、変わらないなら意味がない、意味がないから私が実際に何もしなくても、そこに倫理的責任はない(α)」という立場。いま1つは、「何をしても変わらない、変わらないなら意味がない、しかしそれでも私が実際に何もしないことの理由にはならず、私が何もしないならそこに倫理的責任がある(β)」という立場だ。私たちは、(他に選択肢がなければ)αとβのうちのいずれかを、必ず選ぶ。

 倫理というものは、その選んだ立場の論理的な帰結をも引き受けることを要求する。ではαに立つ人たちは、どんな帰結を引き受けるべきなのか。次のことが言える。すべての人がαの立場にたつなら、民主主義というものは、不正義を是正する機能をもてなくなる。ゆえに、αを選ぶ人は、民主主義が不正を正すことができない、という現実を肯定することを意味する。しかし、αを選んでいるくせに、いっぱしの民主主義者を気取る人間が多すぎるのだ。それは単なる虚偽である。なぜなら、αを選んだ人間は普遍的正義と民主主義とのつながりを、自らの選択によってあらかじめ断っているからだ。そのような人間は、他のあらゆる場面においても、不正義を糾弾する資格を失っている、と、僕は思う。

 もう1つ別の角度から考えてみよう。実際に、私が動かなくても世の中がどうにかなったことはある。いろんな不正義が糾弾され、そして克服されてきた、という歴史はある。しかし、「誰か」が動いたからこそその問題は解決ないし改善されたのであり、その「誰か」が「私であってはならない」理由はまったくないのだ。「動いた人」は、歴史上においては固有名詞の「誰か」であるが、倫理的な意味においては、私やあなたと何の差もない。問いそのものに出会ってしまうかどうかだけが違う。

 では、問いに出会ってしまったなら?もう差はないはずだ。誰かの発した言葉等々を通してパレスチナ問題について知ってしまったなら、その瞬間から、あなたとパレスチナ問題とは直でリンクされる。あなたの無為有為は「その事実を知っているから/にも関わらず」という文脈の上に置かれ、再評価されざるを得ない。そのような状況において、あなたは何をするのか?というのが突きつけられている問いである。周りが動かないからどうたらこうたら、なんて話はまったく関係がないと言う他ない。少なくとも、民主主義というものが、普遍的な正義に(通じないかもしれないが)通じえる道として正当化されているとするならば。あるいは、単なる形式的な民主主義をドグマティックに擁護する「民主原理主義」でないのならば。

 そう考えてくると、デモとは次のようなもんだと言える。ある問題状況に直面した人間が、他にやれることが何も見つからず、それでも無為にだけはとどまるまいとして行う無様な行為。それを行う意味があるとすれば、「しかし、それでも無反応よりは遥かにマシである」という一点においてであろう。そして、その一点で十分だ。それを批判する人間は、常に、「では、あなたは何をやっているのですか」という問い返しにさらされざるを得ない。そのことを重々承知しているべきである。