モジモジ君のブログ。みたいな。

はてなダイアリーから引っ越してきました。

心に尊敬を

 朝からずっと、論文書いてる。いろいろ悩んだところがようやく形になってきた。書くだけ書いて、そこから削っていくのが、やはり大事ですね。どうしてもはずせなかった話を一つはずしたら、話の流れがずっとよくなった。

 買売春に関する議論をいろいろ読みながら、どうしても感情的になる自分をうまくやり過ごしつつ、いかに文献に付き合うかってのがなかなか大変だ。といっても、自分に近い否定的な議論の多くには抵抗するのは割り合い簡単。自分としても、否定論の議論の中に納得いかないものを感じるからこそ、わざわざ自分で書こうと思ったわけだし。大変なのは、自分にとって不愉快な論者の書いたものに接するとき。たとえば松沢呉一とか宮台真司の議論には、どうしても一つ欠けている(そして欠かしてはならない)パーツがあると僕には思えていて、この論文もそれを埋めるための作業そのものだったりする。それでも僕の中の不愉快な気分をうまく飼いならすのには骨が折れる。しかし、そういう安っぽい怒りは、次のような(元)セックスワーカー本人の言葉を読むときに冷や水をぶっかけられたようになる。

だからこそ私は、この場を借りて、私を「セックスワーク賛成派」か「反対派」という枠組みで二分したがる「第三者」に言いたい。これ以上、マイノリティーであるセックスワーカーを分断し、やっとの思いで紡ごうとしている連帯を妨害するのはやめてほしい。
鈴木水南子買売春の是非論「拘泥」現象」(『女たちの21世紀 No.16』))

 当事者の助けになるようなことを書けるのでなければ、第三者がわざわざ他所からやってきてアレコレ書くことは、意味がないだけでなく有害だ。書けるかどうかはわからなくても、少なくともそういうものを意図しなければならない。僕が宮台の発言にいちいちカチンと来るとか、そういうレベルで扱ってよい話ではないのだ。そういうことに毎回気づかされる。この程度の当たり前のことすら、セックスワーカー当事者に語らしめなければ気づき得ない。そのことにも忸怩たるものを感じなければならない。二重に罪深い*1

 いろいろ読んだけど、セックスワーカー本人の話は、取材して書かれたものであれ、本人の直接の手記であれ、胸を衝くようなものがたくさんある。浅野千恵さんが取材を通じて知り合った多くのセックスワーカーたちに惹かれるものを感じたりしたそうだけど*2、そういうのもちょっと分かる気がする。そういうものを見ながら、自分としての筋を通した議論を作りたいと思いながら書いてる。

*1:そうは言っても、たとえば宮台氏によるバクシーシ山下の礼賛については、激しい怒りを、それでもそれでも禁じえない。松沢氏は尊敬できるフィールド・ワーカーの面もあったりはするのだけれど、それでもためにする議論、あらかじめ決められたポジションから離れない発言が多いように思う。というのは、彼は性の商品化に賛成でさえあればほとんど批判をしない。おそらく今はそういう時期でない、と考えているのかもしれないが、第三者あるいは買う側の人間の関わり方としてはいかがなものだろうか、とやはり思う。

*2:浅野千恵セックスワーカーを搾取しないフェミニズムであるために」、『セクシュアリティをめぐって (シリーズ「女性と心理」)』所収。