モジモジ君のブログ。みたいな。

はてなダイアリーから引っ越してきました。

2本立て、正義&現実主義

たまっていた雑務を処理&夜は労組関係の会議。忙しいときは過去日記からネタ探し。今みると突っ込みたいところもないではないけど、とりあえず。

正義においてその実現と手段が切り離しえないこと(2003年6月25日)

一般に、目的のために最善の手段を選ぶことが大事だと言われる。「合理的態度」という奴だ。手段にこだわることは意味のないことだ。大事なことは目的を達成することではないか。そう説教されたりする。しかし、そうした説教の根拠があまり真剣に考えられてはいないように思えるので、検討を加えてみた。

たとえば、利益、というものが目的として選ばれたりする。高く売れる鉱物資源があるとする。まっとうな商取引であれ、暴力による強奪であれ、ともかく手に要れさえすれば、その鉱物資源から得られる利益が手に入る。ここでは、とりあえず目的と手段は区別できる。しかし、正義の実現においてはどうか。正義の実現こそが大事なのであって、手段にこだわるべきではない。と、同じように言うことができるだろうか?実際、こういうことはしばしば言われるのだが。それは本当だろうか?仔細に検討すると、実はすこぶる怪しい。というのが僕の見解だ。

それは、おそらく、正義というものの性質に由来する。
正義とは、私達のふるまい方の規則に名づけられたものである。つまり、正義とはパフォーマティブなものである。だとすれば、この規則に違反することはすなわち正義をパフォーマティブに破壊していることになる。それは正義の実現を、実は遠ざけている。ここでは、手段と目的は分離し得ない。私達が正義を実現したければ、正義に適った手段を用いること、つまり手段にこだわることが必要不可欠だ。いかに切実な理由があったとしてもテロリズムが決して正義には到達し得ないのも、ここに理由があると言えるだろう。正義とは、パフォーマティブなものである。だから、正義の実現において、その目的と手段は切り離しえない。

私達は「目的と手段の切り離し」が習い性になっている。合理的な反省のない合理主義という倒錯。これが正義の実現の1つの障害になっていると思われる。正義を合理的に追求するためには、私達が日常的に想起する合理的態度のむしろ逆を行かなければならないのだ。原則にしたがって発言し、原則にしたがって行動する。この愚直さに戻らなければならない。

自称される現実主義(2003年6月22日)

「現実主義」という言葉を、恥ずかしげもなく「自称」として使う人が増えた。その人たちの論調をちょっと考えてみる。

戦争と反戦の文脈で語られる「現実主義」というのは、たとえば、「北朝鮮が攻めてきたらどうするんだ」という奴であったりする。「攻めてこないようにどうするかの方が大事」と言う人が他方にいるが、そういう人たちはアホだということで一蹴される。「常に最悪の事態に備えること」が「現実主義」らしい。
また、最近、エネルギー危機の話がよく言われる。今年の夏は、東京全域で電力不足に陥る可能性がある、とのことだ。だから「原子力立国を目指せ」なんてことを臆面もなく言う奴がいる。「電力不足」という最悪の事態を考えているのだそうで、そういう「最悪の事態」について考えている自分たちこそ「現実主義」なんだそうだ。これを踏まえないエコ思想は理想論に過ぎないのだそうで。

しかし、戦争と反戦の文脈における自称「現実主義」者達は、国家が自国の国民に向かって振るう暴力に驚くほど無頓着だ。わが国の政府も、北朝鮮政府ほどではないが十分に怖いぞ。デモで、特に柄の悪い人たち(失礼)の近くで歩いているとホントにそう思う。防衛庁で情報公開請求をしてきた一般人をリスト化してた、という話だけでもちょっとゾッとする。また、世界最強の軍事大国・アメリカが9.11を経験したという事実、世界でもっとも安全保障に力を入れているイスラエルが日常的な自爆攻撃にさらされているという事実、この事実からまったく目を背けている。いったいどれだけの軍事力があれば安全保障できるのでしょうか?自称「現実主義」者たちは、決してこの問いに答えない。(ちなみに、先日、とある掲示板で、「あれはテロだ。通常の戦争ではない、それを防げなくても仕方が無い」などと書いてあるのを見た。噴飯物である。北朝鮮が日本に戦争を仕掛けるつもりなら、特殊部隊を送り込んで日本海側にズラリと並んでいる原子力施設群を狙うだろう。それが防げないならば、そもそも安全保障なんて不可能なんだよ。)
一方、エネルギーについての自称「現実主義」者。こっちはもっと分かりやすい。彼らは「原発事故」という最悪の事態に言及するときには、あろうことか「確率論」を持ち出すのですよ。一体何がどう「現実主義」なんだ。

そもそも、議論の結果として「何が現実的か」が争われる。議論の前から「現実主義」を自称する連中など、思考停止していることを自ら宣言しているも同然だ。その恥ずかしさに気づかないからこそ、「現実主義」を「自称」したりできるのだろう。なんてことを思う日曜日の昼下がりでありました。