モジモジ君のブログ。みたいな。

はてなダイアリーから引っ越してきました。

性の商品化の意味

またまた『セックスボランティア』ネタ。★セックスのボランティアは成立するか: テクストによる恋愛放談の読後感想に関して。

まず、性行為がどのような関係性の中に置かれるのかについて考えたい。「恋人や夫婦の間にのみ」置く人もいる。しかも、結構多い。しかしそれは必然ではなく、「恋人や夫婦の間」よりは広い範囲の人もいる。また、親密さとは関係ないところでセックスする人がいてもよい。いてはならない、という理由を僕は知らない。実際、いる。しかし、「セックスを親密さの中にしか置かない」という人もいていいし、これまた実際にいる。セックスは親密さの中においてもおかなくてもいい。その中で、少なくとも、性行為を、親密さの中にのみ置こうとする人にとっては、セックスボランティアは無理だ。セックスボランティアをただ肯定的に価値付けし、その存在をただ持ち上げていくばかりの議論が行われれば、それをしたい/したくない、という自由はかなり圧力を受けるだろう。「ボランティア(圧倒的に女性が多い)に心理的な負担をかける結果になる」と僕も思う。しかし、だ。

個人的には、障害者の性は認められるべきだが、ボランティアに頼るのではなく、ちゃんとした買売春のプロに任せるのが妥当だろうと思う。

しかし、これにはひっかかるのである。
プロは、性行為を親密さの中に置かないのだろうか?置かない人は確かにいる。沢山いる。そして、その限りにおいて、「プロに任せるのが妥当」と言いえるようには思える。しかし、親密さの中に置いてしまう人もいて、置いてしまうが何かの事情で(それは貧困や強制ばかりとは限らない)売っていることがある。その人たちは一体どうなっているのだろうか?ということが気にはなる。性が親密さの中におかれるとき「ボランティア(圧倒的に女性が多い)に心理的な負担をかける結果になる」のならば、それはプロであっても同じことではないのか。そこに値段がつけられた途端に、私たちはその人たちの内面を見ずに済ませることの免罪符を手に入れたかのようだ。

市場を介して何かを手に入れるとき、私たちはそれを手放す人の内面を見ないで済ませてきた。済ませている。そして、そうして済ませられることが市場という仕組みの持つ利点ですらある。そういう中で、親密さの中に置くものを売っている人たちの姿は見えなくなる。商品化という現象、商品化が(あるものを忘却させるという)暴力として作用しているという現象について、よくよく考える必要があるのではないか。「体張ってえらいな」と言って済む問題だとは思えない。

整理

障害者の性とそれに対する性の商品化の意義を肯定的に説く議論がある。今回は、その議論がセックスワーカーに対して持つ意味について考えた(というより、セックスワーカーに対して持つ意味が考えられないことについて考えた)。障害者自身に対してもつ意味についてはhttp://d.hatena.ne.jp/mojimoji/20041010で考えた。

言い訳

トラバ先を批判するというよりは、むしろ自戒の気持ちが強いです。たまたまトラバ先が引用しやすい形でスッキリ書かれていたからトラバしたまで。僕自身がこの手の議論を(別の文脈で)していたことがある。ここから議論が広がるといいな、という淡い期待があるから(笑)。

訂正(10月23日追記)

プロは、性行為を親密さの中に置かないのだろうか?置かない人は確かにいる。沢山いる。そして、その限りにおいて、「プロに任せるのが妥当」と言いえるようには思える。

と書いてますが、正しくは次の通り。ちょっとした修正ですが。

プロは、性行為を親密さ以外の場所にも置くのだろうか?置く人、置ける人は確かにいる。沢山いる。そして、その限りにおいて、「プロに任せるのが妥当」と言いえるようには思える。