モジモジ君のブログ。みたいな。

はてなダイアリーから引っ越してきました。

できないこととしないこと

 2003年8月の日記より。僕らができないといっていることの大半は、単にしないだけのことだ。そんなことを書いています。

なすべきだが、できないこと(2003年8月14日)

 不正義への抵抗とプライベートな日常を生きることの間に矛盾を感じるが、この矛盾を解消しようとするときにいくつかのやり方がある。こんなことを言うと、いつも言われるのは、「そんなことを守って生きていけるわけがない」「そんなことを言っていたら、とても窮屈だ」。
 あまりエキサイトはしたくない。できるだけ淡々と。
 それを守ることが困難かどうか、あるいはもっと言えば不可能であるかどうかと、それが守るべき規範であるのかどうかは別の話だ。同様に、それが「窮屈であるか」も何の関係もない。窮屈であるのが正しいかもしれんからだ。
 基本的に、私たちにできる/できない、という話は、私たちがそれをなすべき/なすべきでない、という話とは関係ない。「なすべきだがしない」「なすべきだができない」と言えばいいだけのことである。「なすべきだがしない」のは褒められたことではないが、私たちはそこからしか「しない」理由を思考しはじめることはありえない。
 「なすべきだができない」ことの方は、これはどうにもならないことのような気がする。しかし、実はこれも相当の限定条件つきの話なのだ。たとえば、パレスチナで起こっている不正義を前に、私たちはパレスチナ人を助けるべきだが、「助けることができない」とする。その場合、今の現実を前に、私たちが単独でそれを助けようとするならば、それはできないことだ。その意味でこの言説は正しい。
 しかし、その場合、私たちには直接助ける手立てがないとしても、直接助ける手立てがないように結果せしめている構造に働きかける手立ては間違いなくあるのである。それはたとえば、イスラエル政府、アメリカ政府、日本政府等々に働きかけることであったりする。危機が解決されるときまでに一人でも多くのパレスチナ人が生き延びるように、今の現実の生活を支えることであったりする。それは現地で医療・教育等々の活動に関わることから、わずかな寄付金を送ることまで、様々なレベルでありえるだろう。
 「なすべきだができない」ことをきちんと認識することは、私たちに間接的な手段の存在に気づかせる、という重要な役割がある。あるいは、もっと控えめに言うとしても、直接的な手段がないならでは他には?と考えさせるための動機を与える、という重要な役割がある。「できない」から「なすべきだとは言えない」と述べる態度は、論理的に根拠がないだけでなく、この動機を与える機会を逸するという意味で明らかに目的に対して合理的でない。

なすべきだが、しないこと(8月17日)

 「なすべきだが、できない」ことについて述べた。
 ここで、「なすべきだが、しない」ことについて述べたい。
 「なすべきで、できること」はしばしば厳しい。厳しいから、それは「なすべきだが、できないこと」といわれたりもする。この場合の「できない」にはいくつかの異なる意味が含まれているから、それらを分析しておくことは有益だ。たとえば、マザー・テレサのような自己犠牲は、しばしば「誰にでもできることではない」といわれる。この言葉は曖昧すぎる。「生きるギリギリ以上の一切を手放して生きること」は物理的に実行可能であるという意味で、それは「誰にでもできること」である。そのような物理的実行可能性の限界で生きることは精神的にしんどい、という意味で、「誰にでもできることではない」。言うまでもなく、後者の意味で人は言うのであるが、物理的実行可能性の意味で「できない」ことと人間的卓越の不足によって「できない」ことを曖昧にすることによって、私たちは私たち自身の矮小さに直面するという辛さを逃れていることは事実である。
 私たちは、この事実に、まずは直面すべきである。マザー・テレサ級の自己犠牲は、「誰にでもできること」であり、「できるが、しないこと」である。まずはそう述べておかねばならない。あるいは、あくまでも「それは人として到達しうる相当の高みにあり、ほとんどの人にはできない」という風に言う人がうるさいならば、「物理的実行可能性の条件から見れば、誰にでもできること」と少々冗長だが誤解のない表現に変えてもかまわない。いずれにせよ、それは、ある意味において「誰でもできること」だ、と表示する必要はあるのだ。
 このように表示したところで、私たちは自分を見つめなおさねばならない。このように見つめなおすことの利益は、いくつかあるだろう。とりあえず一つだけを指摘するとすれば、それは前回述べたように、直接的な自己犠牲ができないとしても他に何ができるのか、という次善の策を考えるように動機づける効果を持つ。
ここでも同じような結論を、やはり出すことができる。
 「すべきだが、しないこと」を「すべきだが、できないこと」と言おうとする(それによって、少しでも心理的な負担を減らしたい)という絶えざる傾向性が私たちにはあり、その傾向性に流されることは、ある種の問題について考えないで済ませようとする結果をもたらす。「すべきだが、しないこと」を「すべきだが、できないこと」と表象することは、端的に(少なくとも言葉の曖昧さゆえに区別すべきことが区別できていないという意味での)間違いである。と同時に、私たちをなすことのできる思考から遠ざけるという意味で、私たちの本来の目的からすれば非合理でもある。

ささやかな留保事項(8月20日)

 ただし、この自己犠牲であるけれども、自己を犠牲にすることは、実は「自己だけを」犠牲にしていることを意味しない。人間は誰でも関係性の中に生きている。自己を犠牲にすることは、その自己をかけがえのない存在として感じている人々から「私」を奪うことでもある。「私」では分かりにくいな。具体的な名前を入れてみよう。つまりこうだ。たとえばケビンがケビン自身を犠牲にすることは、ケビンをかけがえのない存在と思う人(パートナーであったり、その両親や子供であったり、等々)から、ケビンを奪うことである。自己犠牲的な活動を担う人の多くが、親しい人に対して「勝手なことをさせてもらっている」という認識を持っていることは決して偶然ではない、と僕には思える。
 と同時に、このことは、自己犠牲を払わないことの理由とされる場合には、徹底して慎重であるべきだろう。まず明らかに指摘する必要のあることが1つある。親密な人たちとの関係において責任を果たすことは、一貫した正義の命ずる自己犠牲という責任を果たすことの代わりにはならない、ということである。「私には家族がいるから仕方がない」という言い訳は、実質的にそういう関係性をたまたま持っていない人だけに責任を負わせてしまうことになるが、その正当性があるとは思えない。ここでとりあげた責任はまったく独立した責任であり、私たちを矛盾した状況に置いている。状況が矛盾しているときに、それを矛盾していないかのように説明することは、それ自体間違いであるし、矛盾について考える機会を私たちから奪うという意味で、私たちの本来の目的に適ってもいない。