モジモジ君のブログ。みたいな。

はてなダイアリーから引っ越してきました。

そんなにエリート主義がお好き?

 一人一人の個性に合った教育、ということが言われる。しかし、大抵、「よくできる子が、周りに合わせて簡単すぎる面白くないところをいつまでも勉強させられるのはよくない」とかなんとかいって、話はいつの間にか「優秀な子供の個性に合った教育」の話にスライドしていく。だんだんとエリート教育の話に変質していく。
 資源には限りがあるから、他のどんな分野でもそうであるように、教育の分野でも次のような2つの立場が争うことになる。

  • 一部の優秀な子供に資源を集中して伸ばすべきだ
  • すべての子供に自らの個性を伸ばす機会を与えるべきだ

 前者はエリート主義、後者は平等主義とでもいえようか。先の話のズレていきかたも、こうした背後にある対立を反映してのことだと思う。さらに「一部の優秀な人間を大きく伸ばした方が、社会として結果的に得られるものも大きくなる。だからこれは全体の利益に適っている」などとでも言われれば、これはちと反論しにくい。そういう意識されてかされずにか、平等主義は効率が悪いと頭から信じ込まれているようで、平等主義は分が悪い。今じゃあまりに分が悪いせいか、運動会のかけっこで順位をつけないなど、さらに徹底した平等主義を掲げる人もチラホラ見られるらしい。こうしたヤケクソ平等主義のせいで、平等主義はさらに分が悪い。


 けど、この方向性はまずいと思う。いわゆるエリート教育ってのは、格差の弊害ももちろんあるのだけれども、経済効率的な問題を既に持っている。仮にエリート主義を採るとしたなら、それは様々な弊害を抱えつつも経済効率のために泣く泣くエリート主義を採用するという以外にありえないのだから、その頼みの経済性で欠陥があったら致命傷だ。
 なぜエリート主義の経済性に欠陥があるのか。それは、非エリートの教育をケチって別のところで面倒をみるならそれは社会保障の負担として社会に重くのしかかるし、面倒をみないならアウトサイダーとして社会不安の温床になる人々が増えることを意味するからだ。結局人が人として自立できるために必要な教育をケチることなどできないのであって、ケチるためのエリート教育論は無効だ。どちらもイヤなら、ちゃんと育てて伸ばせるところは伸ばして経済的に自立可能な人は自立させた方が、全体としては余裕が出てくる。
 そう考えたら、経済効率的には全体の底上げも(少なくともエリート教育と同等には)重視すべきで、平等主義ははずせない。エリート「だけ」が国を支えるなんてありえない。


 あと経験を踏まえて言えば。
 本当に優秀な子供の個性を伸ばすにあたって、普通の大人が出来ることはほとんどない。周りにできることは、せいぜい本なり百科事典なりを渡して興味を促してみることくらいで、後は勝手に成長していくのを見守ることくらいしかできない。エリート教育に必要なものは、よく整備された図書館と公共交通、そしてそこに連れて行ってくれる信頼できる大人(普通は両親)がいればなおいい、って程度の話だ。さほど優秀ではない平凡な子供たちの方がはるかに手がかかるし、育てて伸ばす余地もある。大人たちの力を必要ともしている。