モジモジ君のブログ。みたいな。

はてなダイアリーから引っ越してきました。

神々の争いの果てに

(昨日の続き)
 ちなみに、リバタリアニズムの立場は、「なぜ自由に至上の価値があるのか」について論証を求められる。そして、それには失敗している。この立場も、その正当化に失敗しているという意味においては、他の立場と大差ない。
 さらに言えば、リバタリアニズムも、リベラリズムA、B、Cのどれも、他の可能などんな考え方も、最終的な勝利を得ることはないだろう。それは、倫理の根拠付けが究極的には不可能だ、という論理的事実に起因する。倫理の根拠付けを行っていけば、それは無限の根拠付けを要求するのであり、つまりは不可能ということを意味する。

 その上で何を言うことができるのか。何を行いうるのか。
 たとえば立岩真也氏はこういう。「確信を持ち、現れてくる男を冷たくあるいは暖かく迎えてあげられる者の行為を非難し否定しない(by立岩真也)」。この言葉のように、セックスワークを積極的に捉え、そこに生きがいすら見出す人は現実にいる。そのように感じるその人の存在のありようをまずは肯定すべきだろう。同様に、経済的状況に迫られて仕方なしに売る者たちの中には、そのことに深く傷つく者たちの存在のありようも積極的に捉えるべきだろう。彼らの感じている痛みは、たとえば「どんな仕事でもストレスなんてある」というような粗雑な一般化の中に回収できるような痛みではない(少なくとも、「ないかもしれない」し、ないと言い切るにはそこには説明が必要だ)。
 とりわけ、買う人たちはこの事実から眼をそむけてはいけない。つまり、「私が買ったこの人は、そのことによって深い痛みを感じているのかもしれない」という蓋然性を骨身にしみるまで考えてみなければならない。性的サービスを買うことは、ジャガイモを買うこととは同じではない(ただし、同じであるようなケースもある。この点はまた今度)。買う肯定論者たちの中に、この点を忘れず繊細に考え続ける人を一人も見出すことはできない。そりゃそうだろう。考えてみたなら、そう簡単には買えなくなるはずだ。僕が、肯定するセックスワーカーたちに共感を感じるところがありながらも肯定論に乗りきれないのはそこに理由がある。
 そういうことを考えることで「そう簡単には買えなくなった」ならば、買売春は自然消滅するだろう。それは買売春を合法化するとか禁止するとか、そういう話とは別のところで決着がつくということでもある(そう簡単に事は進まないことも分かっている)。ひとまず私たちがすべきことは、これが倫理問題であることを提起し続けることだ。買う人はいろんな言い訳をするだろう。しかし、それらの言い訳については各個撃破していけばいいと思う。そう難しいことは言っていないはずだ。

自己レス

そういうことを考えることで「そう簡単には買えなくなった」ならば、買売春は自然消滅するだろう。それは買売春を合法化するとか禁止するとか、そういう話とは別のところで決着がつくということでもある(そう簡単に事は進まないことも分かっている)。

 これはさすがにナイーブ過ぎる(笑)。多分、そういうことでは決着はつかない。