モジモジ君のブログ。みたいな。

はてなダイアリーから引っ越してきました。

買売春と臓器売買

 エロライターを自称する買売春肯定派の松沢呉一氏などは「臓器の売買と性の売買は切り離していい問題だ」と言い切っちゃうわけだけども(『売る売らないはワタシが決める』巻末の座談会での発言)、事はそう簡単ではない。たとえば、孫引きになるけれども、立岩真也『私的所有論』の注にA・キンブレル『ヒューマンボディショップ:臓器売買と生命操作の裏側』からの引用としてこういう記載がある。

「・・・腎臓を売って中規模の喫茶店を開いたある(臓器)提供者は、「この額なら片方の眼か片腕だって売ってもいいです」と語った。夫が職を失ったので腎臓を売ることにした二児の母親は、「私に売れるものがそれしかなかったんです。いまでも自分の腎臓に感謝しています。」と語った。・・・」(PP..19-20)

 買売春を肯定するセックスワーカーの人たちの発言とも通じるものがあるだろう。

 暴力や強制によっての臓器強奪は当然許されるべきではないのだけど、自発的な契約に基づく臓器売買を禁じる根拠となると実はさほどはっきりしない。本人にとって損な取引なら契約しないだろうから、自発的な契約に基づく臓器売買は常に本人にとって利益になる。それを禁じる理由は何か?公序良俗に反するから?管理下におかれて強制的に売らされる危険があるから?他に売るもののない貧しい人間を臓器の収穫場として扱うのは貧困層、とりわけ途上国の人々の人権を踏みにじるものである?先進国が途上国から一方的に臓器を買い入れる非対称性が問題?(以上の「根拠」群は、橋爪大三郎「売春のどこがわるい」『フェミニズムの主張』所収 を参考にしてます。)
 どの理由でも構わない。仮に、どれか1つの理由でも成立して臓器売買を禁止すべきだという主張が立証できるなら、それが買売春には適用されない理由を述べる必要がある。追加的な前提条件なしでは、同じ理屈で買売春も禁止、という帰結を導かざるを得ないからだ。
 橋爪大三郎風にいえば、「どうやら誰ひとり、臓器売買=悪を証明できたものはいないらしい。反臓器売買の言説は、臓器売買の周辺部を論難してきただけではないか」ということになる。つまり、買売春を肯定しつつ臓器売買を否定するには、リベラリズムだけでは足りないし、「合意があれば構わない」とする議論でも足りない。松沢呉一氏は「切り離せる問題」であり、「臓器売買に対する考えを披露する意義を感じません」と言うわけなんだけど、とんでもない。仮に両方を容認すると述べるならそれは一貫はしている(乱暴だとは思うけど)。仮に臓器売買は認めないとするならば、その違いについて述べる必要がある。


 ただし、以上の議論は「(買売春とともに)臓器売買を認めるべき」という議論を導かないし、「(臓器売買とともに)買売春を否定すべき」という議論も導かない。議論の構図を整理しているだけで、否定論そのものの立論にはまだ触れてもいないことには注意してほしい。