モジモジ君のブログ。みたいな。

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知的障害者の自立生活の根拠

「自立生活」という言葉すら一般にはあまり知られていない。簡単に言えば、障害者が「施設」に入ることなく、一般住宅において、介助を受けること以外は取り立てて他の人と変わるところのない生活を送ることである。「施設」における生活と違い、寝る時間・起きる時間に始まり、生活の一切を本人の決定(自己決定)に基づいて行う。その意味において、障害者ではない僕らの通常の生活となんら大差がない生活をすることである。
(思いつきで定義してるので、なんか不備があるかもしれんけど、多分大丈夫・・かな。)
知的障害者の自立生活、というのは、読んで字のごとく、知的障害者が自立生活をすることである。私も含めて一部の人たちの間では、知的障害者でも自立生活をするのは当然だと考えていて、可能である限りにおいてそれを実行するように活動してきたし、それが可能であるような社会制度を求めて発言したりしてきた。しかし、世間ではそれはさほど当たり前のことではないらしく、しばしば次のような問いがなされる。

知的障害者の自己決定とは何なのか。本人が自立生活がしたくてやっているのか、どうなんだ。そうだとして、一体どうやって本人の意思だとわかるのだ。周りの介助者や家族のエゴじゃないのか。

つまりは、知的障害者に自立生活は必要ないんじゃないか、ということであり、つまりは「施設」や親との同居でもいいじゃん、ということまで含んでいたりする。これにどうやって答えよう?
というところまで書いて、続きは後で。

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というわけで続き。(既に9月30日。)
今ある現実を前にした場合、これはかなり簡単に答えることができる。両親と共に暮らしている場合、両親の扶養義務がまずあり、障害者の経済生活を支える制度のかなり多くを利用することができない。たとえば、生活保護が受給できないこともある。このことだけでも自立生活をする意味がある。
「施設」に行かないのは、単に今、現実に存在している「施設」というもののありようが問題だからだ。少数の介助者による生命維持ギリギリの生活しか提供されない。
今の状況において、仮に本人の意思が確認できないとしても、「自立生活」がもっとも望ましい生活を手にすることができるのは確かだ。

それならば、社会的に介助負担が担われた上で、親元で暮らすのはどうなのか?理想の介助が行われている理想の施設ならばどうなのか?その場合に知的障害者に自立生活を選ばせる、という問題ならば、もう少し難しいと思う。ただし、今、現実に知的障害者の生活をどう支えるかについて頭を悩ませている支援者たちに先の引用部のような批判をすることが的外れであるということは既に示せている。当面はそれで十分だと思う。