モジモジ君のブログ。みたいな。

はてなダイアリーから引っ越してきました。

「郵政民営化」という責任放棄

郵政民営化の論点とは、ユニバーサル・サービスの維持である。言い換えれば、「儲からなくても提供しなきゃならないサービスのコストを、誰がどうやって負担するのか」である。今回の郵政民営化法案とは、そもそもそんなサービスの提供などやめちまえ、というものでしかなく、つまりは公的責任の放棄である。


ここでの「官から民へ」とは、つまり「公から私へ」でしかない。

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誰かを兵士にするということ

「自衛のために、軍隊は必要だ」という自称・現実主義者は、誰かを兵士とすることの現実についてキチンと答える責任がある。

勲章を四つももらったベトナム戦争の英雄という経歴は、黒人で、しかも高校すら満足に出ていないわたしには結局、なんの役にも立ちませんでした。
アメリカのために死をかけて戦った代償として軍がくれたものとは、その役に立たない勲章と、たったの四百ドルだけでした。
しかも、夜な夜なわたしはおそろしい悪夢に苦しんでいました。
金色の炎に包まれて燃え上がるベトナムの村、断末魔のさけび、われた頭から飛び出す脳みそ。ちぎれた腕。子どもたちの恐怖に満ちた顔、顔、顔。そして死んでも死んでも生き返ってわたしを追うベトコン兵・・・・・。
夜ごとねむりにつくたびに、心は地獄をさまよい、おぞましい光景に、はりさけんばかりのさけびをあげ、その自分の悲鳴におどろいて目を覚ますのでした。
(アレン・ネルソン『「ネルソンさん、あなたは人を殺しましたか?」』pp.9-10)


海兵隊の兵士としてベトナム戦争に従軍し、帰還後PTSDを発症してホームレスとなったアレン・ネルソン氏の語りをまとめた本だ。あちこちで講演会が開かれているので知っている人も多いと思うが、知っていればいい、という問題ではない。正戦論とは、正しい戦いのためには誰かを兵士として戦場に送り込んでもやむをえないことがある、と主張するものであるのだから、人が兵士であるということ=他者を殺すことを継続的に行っていく存在たることの意味について真剣な回答を用意しなければならないはずだ。この点に言及した上で正戦論を展開している論者を僕は寡聞にして知らない。つまり、アレン・ネルソンの存在は、知られてはいるが、事実上無視されている。

誰かを殺すということは、並大抵のことではない。それができるためには、(1)相手を人とは思わないこと、(2)相手を殺す理由を疑わないこと、これら2つの条件がなければならない。それは人間が純粋に道具となるということである。私たちの自由を守るために、その自由が根源的に意味を失ってしまうような人間を製造すること。そんなことが正当化可能なはずはないわけで、このアポリアに答えない限り、正戦論は成り立ち得ない。


この議論から、ただちに自衛隊を廃止せよとか、非武装中立を直ちに実施せよとは、少なくとも僕は、少なくとも今は、言わない。しかし、誰かを兵士としておくということは、決して正当化しえない他者の道具化に他ならない。ゆえに、私たちが暫定的に他者を兵士という道具にしておくとしても、それは暫定的でなければならず、そのような道具とされる人々を必要としない世界を構想する義務をも同時に負っているといわなければならない。私たちは最低でも、非武装、常備軍の全廃を最終的な目標として掲げることを欠いてはならないのである。

アレン・ネルソンの言葉は、人間を道具として扱うことへの根底的な批判として、何度でも読み返されるべきものである。そして、自称・現実主義者たちはそれに応答すべき責任を負っていることを繰り返しておく。


「ネルソンさん、あなたは人を殺しましたか?」 (シリーズ・子どもたちの未来のために)

「ネルソンさん、あなたは人を殺しましたか?」 (シリーズ・子どもたちの未来のために)