モジモジ君のブログ。みたいな。

はてなダイアリーから引っ越してきました。

刑訴法改悪法案、国会へ ~ 2015.03.26参議院内閣委員会 山本太郎議員質疑

 以前から「やばいやばい」と言われていた刑事訴訟法改正法案が3月13日に閣議決定され、今国会に上程されているようです。この件について、去る3月26日に山本太郎参議院議員(生活の党と山本太郎となかまたち)の質疑がありました。見ると、これがまた改めてやばい。いくつか補足情報を加えて、紹介したいと思います。

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憲法を根本から問い直す対話 ~ 高橋哲哉&岡野八代『憲法のポリティカ』

 憲法96条改正論議や解釈改憲という暴挙に象徴されるように、為政者自身が憲法的価値をまったく尊重しない。そんな異常な時代に、哲学者・高橋哲哉と政治学者・岡野八代が「憲法」をめぐって対話する。これは読まないわけにはいかないでしょう、という企画ですね。

憲法のポリティカ―哲学者と政治学者の対話

憲法のポリティカ―哲学者と政治学者の対話

 まずは内容紹介からしておきますと、全体は三部構成で、安倍政権下の現状を批判していく第一部、そこから憲法論を深めていく第二部、そして(安倍政権批判を超えて)さまざまな思想的課題に挑む第三部、という流れになっています。
 話題は多岐にわたるのではありますが、憲法をめぐる中心的な論点として二つを拾えるかと思います。一つが9条。いま一つが天皇制。それぞれ整理してみたいと思います。

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「放射脳」は過激化する?

 このようなことはあるんだろうなぁ、ということは、僕も否定はしません。(次の引用は、約1年前に書かれた記事です。)

多くの人は落ち着いています。ただ除染すれば問題ないだろうという人の考えがエスカレートすることはあまりありません。私もそうです。しかし危険だと思ってしまうと、その方向で主張が過激になってしまう面があります。

そして過激になった人は、後から引けなくなってしまうのです。「放射能災害に苦しんだ南相馬の住民」は、福島が危険なんだと主張したい人にとっては、都合の良い貴重な存在になるわけです。そうした人につれられ、県外の講演会とか招待され、メディアやYouTubeに出てスポットライトを浴びると、過激なことを言い続ける状況に追い込まれてしまうのです。
http://agora-web.jp/archives/1585709.html

 ただし、この記事は(好意的に見ても)一面的でしょう。「除染すれば問題ないだろう」という人は、安全側に向けて「エスカレート」するのではあり、「後に引けなくなってしまう」も同じ。実際、この方もこの記事に紹介される形で「スポットライトを浴び」ているわけで、構造的には同じです。

 それがそう見えないのは、よくある話で、要するに、「自分のことはよく見えない」ということでしょう。結局のところ、その人がどのような材料をどのように読み、聞き、どのように筋道立てて(あるいは立てないで)考えているかを交換してみなければ、その人の考えの妥当性について何も言えないわけです。

 誰しも、同じ構造の中で、同じ認識上の困難に直面しています。そのことを忘れないようにしておきたいものですね。

はてなダイアリーからはてなブログに移籍

 長らくはてなダイアリーを使って、それからまた長らく放置してきたのですが、やっぱり「はてな」に愛着はあるので、この機にまた使ってみようかな、などと考えております。 

 またよろしくお願いします。
 いつまで続くやら、ですが。

文脈依存的な多義性の悪用について

 まず取り上げるのは、一つのコメントである。「『判断の正しさ』について」の中で「ニュートンはまちがってましたけど」と記述したことに対して、「ニュートンの理論は適用範囲が狭まっただけで間違ってなんかいない」という(本人が信じるところの)「ツッコミ」が入った。大変興味深いコメントだと考えるので、以下、検討の俎上にのせてみたいと思う。


 一般的に、言葉は多義的である。それも「一つの語が互いに異なる複数の意味で使われる」というだけでなく、同じ用法に属する場合であっても、文脈によって意味は大きく変わることがある。これを「文脈依存的な多義性」と呼んで区別しよう。その上で、私が書いた「ニュートンはまちがってましたけど」という記述に含まれる「まちがい」の意味は、幾通りかの解釈の可能性がある。

 最初に簡単な区別をしておこう。一つの解釈は「ニュートンの理論は、常に、偽なる予想を導く(A)」という意味で「まちがい」という解釈であり、いま一つの解釈は「ニュートンの理論は、時々、偽なる予想を導く(B)」という意味で「まちがい」とい解釈である。ここで(B)の解釈における「ニュートンはまちがってましたけど」が実質的に何を意味するかを考えてみるならば、それは「ニュートンの理論は適用範囲が狭まった」という以外の意味ではないのである。つまり、先の「ツッコミ」が成り立つためには、(A)の解釈を採らざるをえない。

 しかし、(A)の解釈は明らかに馬鹿げている。もし、(A)を意味しているのであれば、それは「ニュートンの理論を反転させた理論は、常に、真なる予想を導く(A’)」ということであって、そもそも「まちがう可能性」について考える必要性自体がなくなる。よって、(A)の解釈の可能性は簡単に棄却できる。というわけで、不合理さを回避したいならば、(B)の解釈しかありえないことになる。

 つまり、次の二つのことが言える。彼は「ツッコミ」を入れるために都合のよい前提を恣意的に選んだこと、かつ、その前提が不合理なことが容易に理解できるということである*1。このような恣意的かつ不合理な解釈に基づいた批判は、批判としてはもちろん「ツッコミ」としても内実を持たず、端的に言ってナンセンスである*2


 さて、先の例は「(複数の解釈が可能な場合に)恣意的に不合理な解釈を選ぶ」というタイプの言説戦略であった。言語の文脈依存的な性質を悪用した言説戦略には、もう一つ別のタイプのものがある。「(複数の解釈が可能な場合に)どの解釈が正しいのかを意図的に曖昧にする」というタイプの言説戦略である。たとえば、いわゆる「オレオレ詐欺」である。
 この詐欺の手口について使われる、「もしもし?オレだけど」と言う場合の「オレ」には、さまざまな意味がありうる。電話の向うでこのセリフを聞く人物の日常生活の文脈によって、その人に対して電話の向うで「オレ」と名乗る人物のイメージが具体的に決まってくる。そして、電話の受けてが「タケシかい?」とでも聞き返せば、「そうそう、タケシだけどさ、仕事でヘマっちゃって大変なんだ……」という話につながっていく。つまり、発話の中で使用されている文脈依存的な多義性を持つ言葉について、発話の受け手が勝手にイメージを補い、その結果として騙されるという構造になっている。
 一般的に、発話の解釈は、話し手と聞き手の共同作業で行われる。解釈の前提のすべてを実際の発話の中に含めることは原理的に不可能である。ゆえに、解釈上必要な情報を聞き手の側が補って解釈することは、本来、聞き手に求められるべき態度と言っていい。「オレオレ詐欺」の手口が有効でありうるのは(また、悪質でもあるのは)、言語を成立させているこの寛容さに付け込むからである。
 とはいえ、この点に注意すれば、オレオレ詐欺の手口は比較的簡単に防止することもできる。つまり、「『オレ』って、誰だい?」と問い返せばよい。。


 しかし、「『オレ』って、誰だい?」と問い返すだけで看破できる状況ばかりではない。もう一つ、例を挙げておこう。震災がれき問題における環境省の主張の一つに、「排気中の放射性セシウムは99.9%がバグフィルターによって捕捉される」というものがあった*3。つまり、焼却炉で燃やす廃棄物に放射性セシウムが含まれていたとしても、そのほとんどすべてがバグフィルター(と呼ばれる焼却炉から出る排気中の微粒子を捕捉するフィルター)によって捕捉される、こういう主張である。このように説明されれば、直観的には、多くの人が「廃棄物に含まれる放射性セシウムのうち0.1%しか外には出ない」と理解するだろう。

 もし、「廃棄物に含まれる放射性セシウムのうち0.1%しか外には出ない」と言いたいのであれば、「焼却炉内に持ち込まれる放射性セシウムの総量」を把握した上で、「焼却灰に移行する放射性セシウムの総量」、「焼却炉内に滞留する放射性セシウムの総量」ならびに「焼却炉の排気から外に放出される放射性セシウムの総量」の合計と比較しなければならない。つまり、物質収支を取るということだ。しかし、環境省の主張の根拠は、このような結論とは何の関係もないものである。環境省は、「物質収支のデータを取ることは困難」として、代わりに次のようなデータを取っている。つまり、焼却炉の排気の順路において、「バグフィルターの手前の空気中に存在している放射性セシウムの濃度」と「バグフィルター後の排気中に存在している放射性セシウムの濃度」の比をとり、これが1000対1程度の比率になっていることから、「排気中の放射性セシウムは99.9%がバグフィルターによって捕捉される」と主張している。

 単純化のために、一旦、「焼却灰に移行する放射性セシウム」を無視するとしよう。ここで、焼却炉内に一定量の放射性セシウムが供給されたとする。すると、配管を通って排気される直前の空気に含まれる放射性セシウムは、フィルターに止められる。すると、フィルター手前の空気におけるセシウム濃度は上昇していくはずである。フィルターの手前と後のセシウムの濃度比も次第に大きくなるだろう。その後、状況が変わらなければ、放射性セシウムは少しずつ外に漏れ出ていき、フィルター前後の濃度比も低下する。そして、長期的には、焼却炉に投入された放射性セシウムは全部外に出てしまうはずである。つまり、フィルターの前後の目標物質の濃度比と(物質収支でイメージされるところの)目標物質に対するバグフィルターの捕捉性能の間には、何の関連性もない。「焼却灰に移行する放射性セシウム」を考慮に入れた場合も、この結論は変わらない。

 つまり、環境省の主張は「99.9%がバグフィルターによって捕捉される」と主張する場合の分母と分子を曖昧にしたうえで、聞き手が勝手に補って誤解するように導く説明にしかなっておらず、悪質かつ不誠実である。


 データが測定困難である場合に代替的な手法を用いることはかまわない。しかし、その際には、どうしてその代替的なデータで主張したい命題の内容が主張できるのか、説明しなければならない。環境省が「いや、関連性はある」と言いたいなら、説明すればよいのである。しかし、この部分についての説明は、一切、存在しない。僕が聞いた限りでは、「ちゃんと専門家に議論してもらって出した結論なので」という以上の根拠は出てこなかった*4

 そうであるならば、決定的に重要なのは、その専門家たちの議論の内容である。災害廃棄物安全評価検討会議の議事録は、国会での批判を受けて、全十六回の議事録のうち十二回分が開示された。しかし、第八回から第十一回の四回分については、未だに開示されないし、今後も開示の予定はない。そして、この四回分こそ、技術的問題の核心部分について議論していた回なのである。


 問題はこの一件にかぎらない。震災がれき問題について言えば、バグフィルター神話に関わる問題のみならず、焼却処理から埋立処理にかけての全過程、データの測定方法、放射線被曝のリスク評価、そもそもの広域処理施策の必要性等々、数多の論点があり、それらすべてについて、環境省の言い分には実質的な説明が欠如しているというのが実態である。

 広域処理に賛成した人たちには、自己批判すべきことが山ほどある。しかし、自己批判すべき人ほどその必要性を理解しないのは世の常である。ただ、少しずつでも問題点を示していくことで、とりわけ、その手口を示していくことで、彼らに引きずられて過ちを犯す人の数は減らすことができるだろう。

*1:もう一つ別の可能性もある。つまり、「『まちがい』という語は『常に偽である』の意味に使うべきであり『偽であったり真であったりする』という場合には使うべきではない」という主張である。しかし、何の資格があってこのような恣意的な使用制限をかけられるのかは、(A)の解釈と同様に理解できない。

*2:もう少し話を続けよう。解釈(B)の意味は、もう少し細分化した方がよいと思われる。次の二つを区別してみよう。一つは「ニュートンの理論は、時々、偽なる予想を導く。どのような場合に偽なる判断を導くのかまったく予測できないので役に立たない(B1)」という解釈であり、いま一つは「ニュートンの理論は、時々、偽なる予想を導く。どのような場合に偽なる判断を導くのかがある程度予測できるので役に立つ(B2)」。(B2)は、たとえば「大抵の場合には真なる判断を導けるので役に立つ」と言い換えてもよい。要するに、大雑把には、一つはニュートンの理論の価値をまったく尊重しない立場であり、いま一つはニュートンの理論の価値をある程度(というよりも、とても大きく)認めている立場である。問題の「ニュートンはまちがってましたけど」という記述に続く一連の文章を読めば、(B2)以外の意味には解釈できないことは明瞭だと思われる。この意味でも、先の「ツッコミ」に至る恣意的な読解は正当化できない。

*3:これは震災がれき問題に関して環境省がなした問題ある主張の一つに過ぎず、また、バグフィルターに関連してすら、きわめて限定した問題点の指摘に過ぎない。すべての問題を網羅していたら、本一冊ほどにもなってしまう。

*4:というよりも、このような権威主義的な根拠が出てきた。まともな議論であればこの時点で終了、あんたの負け、と言ってもいいほどのお粗末さである。