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モジモジ君のブログ。みたいな。

はてなダイアリーから引っ越してきました。

文脈依存的な多義性の悪用について

 まず取り上げるのは、一つのコメントである。「『判断の正しさ』について」の中で「ニュートンはまちがってましたけど」と記述したことに対して、「ニュートンの理論は適用範囲が狭まっただけで間違ってなんかいない」という(本人が信じるところの)「ツッコミ」が入った。大変興味深いコメントだと考えるので、以下、検討の俎上にのせてみたいと思う。


 一般的に、言葉は多義的である。それも「一つの語が互いに異なる複数の意味で使われる」というだけでなく、同じ用法に属する場合であっても、文脈によって意味は大きく変わることがある。これを「文脈依存的な多義性」と呼んで区別しよう。その上で、私が書いた「ニュートンはまちがってましたけど」という記述に含まれる「まちがい」の意味は、幾通りかの解釈の可能性がある。

 最初に簡単な区別をしておこう。一つの解釈は「ニュートンの理論は、常に、偽なる予想を導く(A)」という意味で「まちがい」という解釈であり、いま一つの解釈は「ニュートンの理論は、時々、偽なる予想を導く(B)」という意味で「まちがい」とい解釈である。ここで(B)の解釈における「ニュートンはまちがってましたけど」が実質的に何を意味するかを考えてみるならば、それは「ニュートンの理論は適用範囲が狭まった」という以外の意味ではないのである。つまり、先の「ツッコミ」が成り立つためには、(A)の解釈を採らざるをえない。

 しかし、(A)の解釈は明らかに馬鹿げている。もし、(A)を意味しているのであれば、それは「ニュートンの理論を反転させた理論は、常に、真なる予想を導く(A’)」ということであって、そもそも「まちがう可能性」について考える必要性自体がなくなる。よって、(A)の解釈の可能性は簡単に棄却できる。というわけで、不合理さを回避したいならば、(B)の解釈しかありえないことになる。

 つまり、次の二つのことが言える。彼は「ツッコミ」を入れるために都合のよい前提を恣意的に選んだこと、かつ、その前提が不合理なことが容易に理解できるということである*1。このような恣意的かつ不合理な解釈に基づいた批判は、批判としてはもちろん「ツッコミ」としても内実を持たず、端的に言ってナンセンスである*2


 さて、先の例は「(複数の解釈が可能な場合に)恣意的に不合理な解釈を選ぶ」というタイプの言説戦略であった。言語の文脈依存的な性質を悪用した言説戦略には、もう一つ別のタイプのものがある。「(複数の解釈が可能な場合に)どの解釈が正しいのかを意図的に曖昧にする」というタイプの言説戦略である。たとえば、いわゆる「オレオレ詐欺」である。
 この詐欺の手口について使われる、「もしもし?オレだけど」と言う場合の「オレ」には、さまざまな意味がありうる。電話の向うでこのセリフを聞く人物の日常生活の文脈によって、その人に対して電話の向うで「オレ」と名乗る人物のイメージが具体的に決まってくる。そして、電話の受けてが「タケシかい?」とでも聞き返せば、「そうそう、タケシだけどさ、仕事でヘマっちゃって大変なんだ……」という話につながっていく。つまり、発話の中で使用されている文脈依存的な多義性を持つ言葉について、発話の受け手が勝手にイメージを補い、その結果として騙されるという構造になっている。
 一般的に、発話の解釈は、話し手と聞き手の共同作業で行われる。解釈の前提のすべてを実際の発話の中に含めることは原理的に不可能である。ゆえに、解釈上必要な情報を聞き手の側が補って解釈することは、本来、聞き手に求められるべき態度と言っていい。「オレオレ詐欺」の手口が有効でありうるのは(また、悪質でもあるのは)、言語を成立させているこの寛容さに付け込むからである。
 とはいえ、この点に注意すれば、オレオレ詐欺の手口は比較的簡単に防止することもできる。つまり、「『オレ』って、誰だい?」と問い返せばよい。。


 しかし、「『オレ』って、誰だい?」と問い返すだけで看破できる状況ばかりではない。もう一つ、例を挙げておこう。震災がれき問題における環境省の主張の一つに、「排気中の放射性セシウムは99.9%がバグフィルターによって捕捉される」というものがあった*3。つまり、焼却炉で燃やす廃棄物に放射性セシウムが含まれていたとしても、そのほとんどすべてがバグフィルター(と呼ばれる焼却炉から出る排気中の微粒子を捕捉するフィルター)によって捕捉される、こういう主張である。このように説明されれば、直観的には、多くの人が「廃棄物に含まれる放射性セシウムのうち0.1%しか外には出ない」と理解するだろう。

 もし、「廃棄物に含まれる放射性セシウムのうち0.1%しか外には出ない」と言いたいのであれば、「焼却炉内に持ち込まれる放射性セシウムの総量」を把握した上で、「焼却灰に移行する放射性セシウムの総量」、「焼却炉内に滞留する放射性セシウムの総量」ならびに「焼却炉の排気から外に放出される放射性セシウムの総量」の合計と比較しなければならない。つまり、物質収支を取るということだ。しかし、環境省の主張の根拠は、このような結論とは何の関係もないものである。環境省は、「物質収支のデータを取ることは困難」として、代わりに次のようなデータを取っている。つまり、焼却炉の排気の順路において、「バグフィルターの手前の空気中に存在している放射性セシウムの濃度」と「バグフィルター後の排気中に存在している放射性セシウムの濃度」の比をとり、これが1000対1程度の比率になっていることから、「排気中の放射性セシウムは99.9%がバグフィルターによって捕捉される」と主張している。

 単純化のために、一旦、「焼却灰に移行する放射性セシウム」を無視するとしよう。ここで、焼却炉内に一定量の放射性セシウムが供給されたとする。すると、配管を通って排気される直前の空気に含まれる放射性セシウムは、フィルターに止められる。すると、フィルター手前の空気におけるセシウム濃度は上昇していくはずである。フィルターの手前と後のセシウムの濃度比も次第に大きくなるだろう。その後、状況が変わらなければ、放射性セシウムは少しずつ外に漏れ出ていき、フィルター前後の濃度比も低下する。そして、長期的には、焼却炉に投入された放射性セシウムは全部外に出てしまうはずである。つまり、フィルターの前後の目標物質の濃度比と(物質収支でイメージされるところの)目標物質に対するバグフィルターの捕捉性能の間には、何の関連性もない。「焼却灰に移行する放射性セシウム」を考慮に入れた場合も、この結論は変わらない。

 つまり、環境省の主張は「99.9%がバグフィルターによって捕捉される」と主張する場合の分母と分子を曖昧にしたうえで、聞き手が勝手に補って誤解するように導く説明にしかなっておらず、悪質かつ不誠実である。


 データが測定困難である場合に代替的な手法を用いることはかまわない。しかし、その際には、どうしてその代替的なデータで主張したい命題の内容が主張できるのか、説明しなければならない。環境省が「いや、関連性はある」と言いたいなら、説明すればよいのである。しかし、この部分についての説明は、一切、存在しない。僕が聞いた限りでは、「ちゃんと専門家に議論してもらって出した結論なので」という以上の根拠は出てこなかった*4

 そうであるならば、決定的に重要なのは、その専門家たちの議論の内容である。災害廃棄物安全評価検討会議の議事録は、国会での批判を受けて、全十六回の議事録のうち十二回分が開示された。しかし、第八回から第十一回の四回分については、未だに開示されないし、今後も開示の予定はない。そして、この四回分こそ、技術的問題の核心部分について議論していた回なのである。


 問題はこの一件にかぎらない。震災がれき問題について言えば、バグフィルター神話に関わる問題のみならず、焼却処理から埋立処理にかけての全過程、データの測定方法、放射線被曝のリスク評価、そもそもの広域処理施策の必要性等々、数多の論点があり、それらすべてについて、環境省の言い分には実質的な説明が欠如しているというのが実態である。

 広域処理に賛成した人たちには、自己批判すべきことが山ほどある。しかし、自己批判すべき人ほどその必要性を理解しないのは世の常である。ただ、少しずつでも問題点を示していくことで、とりわけ、その手口を示していくことで、彼らに引きずられて過ちを犯す人の数は減らすことができるだろう。

*1:もう一つ別の可能性もある。つまり、「『まちがい』という語は『常に偽である』の意味に使うべきであり『偽であったり真であったりする』という場合には使うべきではない」という主張である。しかし、何の資格があってこのような恣意的な使用制限をかけられるのかは、(A)の解釈と同様に理解できない。

*2:もう少し話を続けよう。解釈(B)の意味は、もう少し細分化した方がよいと思われる。次の二つを区別してみよう。一つは「ニュートンの理論は、時々、偽なる予想を導く。どのような場合に偽なる判断を導くのかまったく予測できないので役に立たない(B1)」という解釈であり、いま一つは「ニュートンの理論は、時々、偽なる予想を導く。どのような場合に偽なる判断を導くのかがある程度予測できるので役に立つ(B2)」。(B2)は、たとえば「大抵の場合には真なる判断を導けるので役に立つ」と言い換えてもよい。要するに、大雑把には、一つはニュートンの理論の価値をまったく尊重しない立場であり、いま一つはニュートンの理論の価値をある程度(というよりも、とても大きく)認めている立場である。問題の「ニュートンはまちがってましたけど」という記述に続く一連の文章を読めば、(B2)以外の意味には解釈できないことは明瞭だと思われる。この意味でも、先の「ツッコミ」に至る恣意的な読解は正当化できない。

*3:これは震災がれき問題に関して環境省がなした問題ある主張の一つに過ぎず、また、バグフィルターに関連してすら、きわめて限定した問題点の指摘に過ぎない。すべての問題を網羅していたら、本一冊ほどにもなってしまう。

*4:というよりも、このような権威主義的な根拠が出てきた。まともな議論であればこの時点で終了、あんたの負け、と言ってもいいほどのお粗末さである。

広域処理に賛成することは科学的態度と言えるか?

 実は、震災がれき問題に関わっている間、「震災がれきを燃やすことは危険ですか?」という質問に対して、「危険です」と答えたことは一度もない。この直截な質問に対しては、原則として「わからない」と答えてきた。それでは、僕は何を問題にしてきたのか。安全性と必要性を問題にしてきたとは言えるが、正確に言えば、「政府の言う『安全です』『必要です』との主張の根拠には合理的な疑いの余地がある」ということだ。そして、政府が示している論理と証拠に対して、一つずつ丁寧に疑問を投げかけていった。環境省はおよそ何一つ答えなかったし、答える意志もなかった。

 言うまでもないが、「危険です」と答えることと「(安全か危険か、危険だとしてどの程度危険か)わからない」と答えることの間には大きな違いがある。もちろん、「安全です」と答えることの間にも大きな違いがある。僕の立場は、実際に何が起こるかはわからないし、この点で確信的に言えることはない、というものだ。そして、「政府の言う『安全です』『必要です』との主張の根拠には合理的な疑いの余地がある」という主張をしてきたが、この点についてさえ、自分の主張に確信を持ってはいない。しかし、確実に言えることがある。「行政が『安全です』『必要です』と主張するに至る判断過程は不合理であった」、ということだ。


 その根拠の一つは「災害廃棄物安全評価検討会議の議事録不作成」問題である。その経過は次の記事に詳しい。

 この議事録不作成問題の含意するところは重要である。第一に、この施策に責任ある人々は、その判断過程を積極的に隠蔽した。第二に、市民がその判断過程に関心を寄せていることを知って、改めて隠蔽の度合いを強めた。第三に、最終的に、議事録の重要部分について開示しなかった。第四に、検討に関与した学者の内、議事録を開示すべきと主張した人が一人もいなかった。この件だけでも到底容認できないスキャンダラスなデタラメさである。


 仮に、震災がれきの広域処理は安全であり、必要でもあったと、想定しよう。そうであるならば、震災がれきの広域処理に賛成することは合理的であろうか。否である。なぜなら、議事録不作成問題を通して見た震災がれき問題とは、「行政の判断過程が著しく不合理な場合でも、その政策を容認するべきか」という問題だからである。

 次のように述べる人はいるだろう。すなわち、「結論が正しいならば、判断過程が不合理であってもよい」。より詳しく述べるならば、次のようになるだろう。「自分は合理的な判断過程で正しい結論を導いた。行政は不合理な判断過程ではあるが、正しい結論にたどり着いたらしい。そうであるならば、行政の施策を容認することは、私にとっては何ら問題のあることではない」。この考え方は容認できるだろうか。否である。容認できない。なぜなら、この場合、行政は説明責任を果たすことが原理的に不可能であるからだ。こうした主張に同意する人は、行政が(結果だけでなく)過程について責任を負うべきことの意味も重要性もまったく理解していない。


 なぜ、行政が(結果だけでなく)過程についても責任を負うべきなのだろうか。それは、行政に結果においての過ちを回避させるための仕組みに対して、不可欠の一要素をなすからである。

 「『判断の正しさ』について」で述べたように、選択可能な理論を差別なく検討し、参照可能な証拠を差別なく参照した上でなされる、最善の合理的な説明に基づく施策であってもまちがうことはある。それによって被害も発生しうるだろう。そうした条件の下で悪い事態を避けるために取りうる方法の一つは、結果責任を厳しく問うことである。しかし、この場合、政策担当者は必ず次のように考える。すなわち、「悪い結果を避けようとしても確実ではないが、『悪い結果が出てもそれを追及されないようにすること』を併用すれば、より確実に結果責任を回避できる」。これが結果責任を厳しく問うことの弊害である。

 ここで出てくるのは、悪い事態を避けるためのもう一つの方法である。それは判断過程を開示する責任を厳しく問うことである。このことのメリットは明らかである。第一に、これによって意図的に不合理な判断に従うことは最大限に排除される。第二に、公共的な討論に付すことによって、判断過程の合理性を一層高めることができる。そして、この方法は第一の方法と矛盾せず、むしろ、その機能を補完するだろう。ゆえに、行政の施策が科学的な妥当性を持つような状況を望ましいと考えるならば、判断過程の開示責任を求めない理由はどこにもありえない。この問題を不問にする理由もありえない。


 広域処理の賛成派の中で、先の議事録不作成問題に言及する人はほとんどいない。きっと彼らは「そんなこと重要じゃない」と言うだろう。だとすれば、「広域処理賛成派は全体として広域処理の賛成派は判断過程の重要性を理解していない」と言えるし、この事実は「広域処理賛成派の人たちがそもそも科学的姿勢を持っているのか」を疑うに足る十分な理由になる。判断過程こそが、科学的思考の生命線なのだから。

※ なお、今回は、議論の実質には踏み込んでいない。たとえば、バグフィルター神話などの主張の非科学性については何も述べていない。機会があれば別稿ででも述べたい。また、広域処理の必要性については、既に、「不要なものを水増しして広域処理施策強行に持ち込んだ」ことはほぼ明らかにされてきている。広域処理賛成派の知的誠実さが問われるところだろう。

「判断の正しさ」について

 「判断を誤った」ことを制裁の対象にしていくと、頑として誤りを認めない、誤ったことを隠す、そういう体質にどんどんなっていくと思っています。つまり、判断の結果に注目することは、問題を大きくしてしまう。そうだとするならば、代わりに、どのように考えればよいのでしょうか。


 そもそも、判断とは、判断の「正しさ」とは何でしょうか。
 ニュートンはまちがってましたけど、それでも、彼の理論が土台となってアインシュタインやその後の理論が生まれてきたとは言えると思います。間違っても「正しいと信じられること」を言葉に、形にすること、それが私たちの世界に対する認識を進歩させてきました。逆に、あてずっぽうで結論だけ言い当てることができたとしても、そのことに何か意味があるでしょうか。少なくとも、次なる判断に生かしうる知見を何ももたらしていないという意味で、まぐれ当たりの正解には何の価値もありません。

 正しいか間違いかで言うなら、体系としての信念は、必ずどこかがまちがっています。その中の個別の命題についても、やはり、まちがっていることはいくらでもあります。まちがいたくないなら、何も言わなければいい。これだけが、「まちがったことを言わないため」の唯一の方法です。……ただし、これとて「何も言わないことがそもそも間違っている」としか言いようのない状況での誤り回避の戦略には、ならないのです。だとすれば、私たちは、不可避に間違う可能性の前に立たされていることを認めなければなりません。


 この認識を前提に、私たちはどこまでを個人として責任を負うのでしょうか。そもそも、私たちが到達しうる最善の正しさとは何か。言うまでもなく、絶対的な正しさではありえません。そうではなく、判断しなければならない時点において、実際に思いつけていた様々な仮説の中から、証拠に照らして最善と思える仮説を選ぶ、そういう種類の正しさでしかありえません。私たちが最善の努力で果たしうる責任とは、そのようなものではないでしょうか。

 そうであるならば、検討可能な様々な仮説を差別なく吟味したかどうか、利用可能な様々な証拠を差別なく採用したかどうか、判断過程の検証こそが重要なのだと言えるでしょう*1。だから、判断過程のプロセスを明晰に言葉にすること、その際に利用した証拠をできる限り隠さずに明らかにすること、これが先に述べた責任の一部として含まれるでしょう。


 もちろん、結論においてまちがっていたことが判明したなら、判断過程においてもどこかまちがっていたかもしれないと推定することは自然なことですから、結論のまちがいが判明したことをきっかけに検証がなされることも自然なことでしょう。原発事故の調査委員会などは、そのようなものです。

 しかし、ここには二つの問題が残ります。第一に、失敗が判明するまで検証がなされないということです。たとえば、原発事故に関しては、事故が起きたから検証することはもちろん必要ですが、本来であれば、事故が起きる前に未然に防げたことのはずです。2011年3月11日以前に、その検証の機会はなかったのか。有りすぎるほどあった、ということは、少しでもこの問題について調べた人であれば誰もが頷くことだろうと思います。

 そして、第二の問題に移りましょう。これはより深刻な問題です。すなわち、判断過程に関する証拠を積極的に隠蔽・破壊することでそもそもの失敗が判明しないような構造を作り出すこと、これによってより確実に責任が回避できるような構造を作り出してしまうことです。行政は、議事録や審議過程に利用した情報を隠します。警察や検察は証拠や捜査に関する情報を隠します。軍隊(自衛隊)も同様です。できるだけ文書にはせず、文書にしてもできるだけ早期に破棄し、破棄できなくても存在自体を隠し、存在が隠せなくても「紛失した」と嘘を言い、こうしたことは枚挙の暇もないほどです。終戦時の日本政府による組織的な公文書焼却も指摘しておくべきでしょう。

 もっと身も蓋もないやり方もあります。つまり、「私が私の権限でそう決めました」、「私の判断です」、これで済ませてしまう。『あなたがそのように判断したことの根拠は』と聞いても、「お答えできません」と返ってくるか、さもなければ「私の判断です」と繰り返すわけです。最近では橋下や安倍がそういう答弁をしますが、たとえば、裁判所で行われる勾留理由開示公判等もそのようになっています。最近になって初めて現れてきた傾向というわけでもないのです。


 以上のことから、次のように述べたいと思います。私たちは、結論におけるまちがいよりも、判断過程の不合理さをこそ問題にする視点を持つべきでしょう。長期的に見て、結論におけるまちがいを減らすために私たちが関与できるのは、判断過程だけなのですから。そして、判断過程を隠蔽するようなあらゆる方法を、犯罪そのもの以上に強く憎み、決して許さないという態度を採るべきでしょう。この視点の変更なくして、この腐りきった社会を立て直すことなど、到底不可能だろうと、確信しています。

*1:たとえば、2011年3月11日直後に「メルトダウンではない」と予測した人がいましたが、予測が外れたことが問題なのではありません。第一に、その人がそのように判断した根拠が十分に示されていないこと、第二に、別の人が根拠を明示した上で「メルトダウンしている可能性は否定できない」と判断できた事実により、当時の利用可能な証拠に照らしてそのような判断ができたということ、ゆえに、「メルトダウンではない」との結論に至る判断過程の不合理さが強く推認され、ゆえに批判されているのです。そして、第三に、いまに至るも以上の批判に対するまとまった応答はなされていないことが、ある意味ではもっとも深刻な問題なのです。

表現が私たちをつなげることができるのだとしたら

 僕は、常々、できるだけわかりやすく語りたいと考えているし、できるだけおもしろく語りたいとも思う。耳を傾けてほしいからだ。しかし、もちろん、わかりにくくても大事なことに、おもしろくなくても大事なことには耳を傾けてほしいと願っている。

 後者のメッセージはほとんど伝わらない。このメッセージを受け取ることは、多少の面倒くささをもたらすからだろう。気付かないのか気づきたくないのか、とにかく、この部分のメッセージはほとんど届くことがない。


 ユーモアをもって語ることは、確かに、社会を大きく変えることがある。しかし、「ユーモアをもって語られていないことに耳を傾けない態度」、ここだけは頑として変わらなかった、変えることはできなかったのではないか。思い起こしてみてほしい。この社会で語られた本当に大切なことの多くは、本当に本当に痛切な思いで語られていて、聴いているだけでつらく苦しく胸が痛むようなことではなかったか。

 あるいは、こういうことも考えたい。古臭いスローガンの連呼は見苦しいかもしれない。しかし、そのスローガンを連呼する見苦しい人が、どんな人生を歩んできたのか、考えたことが一度でもあるだろうか。大した人生ではないかもしれない。しかし、ある種の理不尽を必死で潜り抜けて生き延びてきて、そうして怒りや悲しみや希望を込めて、その人はそこで古臭いスローガンを連呼する以外の表現を知らなくて、叫んでいる。そんなことがありうると、考えたことがあるだろうか? さまざまな思いを経てその人が獲得した言葉が、そういう「貧しい」言葉でしかなかった、そんなことはいくらでもある。

 表現するなら、工夫はした方がいい。良い工夫も悪い工夫もある。それは端的に技術の問題だ。しかし、工夫のありようによって、耳を傾ける必要があるかないか、聞き手が好きに選んでいいということでは決してない。語り手は知っていて、聞き手は知らない、語る動機があるところに聞く動機はない、だから必然的に工夫するしかない、そういう構造になっている。しかし、語る動機があるところに聞く動機がないとしても、語る責任があるから語っているのではないし、聞く責任がないから聞かなくてよいのでもない。


 まったく同じことが明るくも暗くも表現できるなら、明るい表現の方がいい。そんな風に思っている人があるかもしれない。しかし、僕はこの前提を信じていない。つまり、「まったく同じことがまったく別様に表現できるはずだ」という前提を信じていない。そこにはきっとズレがある。いや、本当にズレがあるのかはわからない。しかし、「そこにはきっとズレがある」と思っていないと気付けないことはきっとある。

 まったく同じことを別様に「明るく」表現したのだとしたら、そこには零れ落ちるものがあるだろう。たとえば、「あまり明るくはないメッセージにも耳を傾けよう」というメッセージは、そこから零れ落ちている。「人々が受け入れやすい形で表現することがほとんどできない」、伝えられるべきことの中には、そんなこともいくらでもあると思う。だから、「明るいメッセージ」ばかり聞いていたら、気づけないことがきっとある。


 私たちが「わかりやすい」「おもしろい」「明るい」表現を追求するとしたら、上記したような事情にもかかわらず、そうするのである。これからも、人々に受け入れられやすい表現を、CM的手法を、マーケティングの知恵を、取り入れて取り入れて工夫に工夫を重ねて、「届け、伝われ」と祈るような気持ちで発信するだろう。しかし、その一方で、そんな工夫など一切していない(たとえば「できない」)人のメッセージに真剣に耳を傾けること、それこそが私たちに求められる倫理だったのではないかと、常に忘れないで考えている必要があるだろう。表現の工夫が、この社会の可能性を閉ざすのではなく開くためには、このことは何度でも強調される必要がある。

 おもしろみのない、ダサい、古臭い、工夫のない、品のないメッセージに、私たちがどれだけ真剣に耳を傾けることができるか。あるいは、耳の痛いメッセージに、どれだけ真剣に耳を傾けることができるか。それが私たちの社会の未来を決めるだろう。表現の工夫は、その余地を広げたり、さまざまな負荷を和らげたりすることはできても、耳を傾けることの倫理をなしですませるわけには、やはり、いかない。

「わかりやすさ」について

 同じ話なら、できるだけわかりやすく話した方がいいと思うし、そのように努力することは大事だと思う。ただ、だからこそ、聞き手である人々は、わかりやすさの危険性について、もっと具体的に考えておいた方がよいと思う。


 人は、気づいていないことには、気づいていない。そのことに気づくことは、決してわかりやすいことではない。ちょっとした違和感を感じて、少し足踏みをするように考えて、ジワジワとの気づいていなかった「何か」の姿が見えてくることもあれば、あるヒラメキとともに「何か」が見えてくることもある。いずれにせよ、「気づき」と「わかりやすさ」は別のものだ。

 だから、次のことに注意する必要がある。もし、あなたが「わかりやすさ」を基準にさまざまな知識や考え方を求めているなら、あなたの気づいていないことに気づかせる「何か」に出会う可能性は、その分だけ、低くなる。


 この「何か」は、まだ気づいていない盲点にある、というだけではない。しばしば、気づくことによって不愉快な気持ちになる「何か」でもある。たとえば、私たちは知らず知らずのうちに誰かの足を踏んでいることがある。足を踏んでいることに気づくことは、「踏んでしまって痛い思いをさせて申し訳ない」というバツの悪さに気づくことでもある。

 足を踏む程度ならよい。指摘されれば簡単にわかることだから。問題なのは、「足を踏んでいる」その相手がどこか遠くにいるときだ。たとえば、私たちの政府が決定したことが、遠く地球の裏側に暮らす誰かの頭上に爆弾の雨を降らせることだったり、そうしたことへの支持や協力だったりすることは、(少なくとも日本という国に住んでいる場合には)珍しいことではない。私たちが足を踏んでいる相手は、地球の裏側に暮らす人であったり、未来や過去に生きる人であったりする。足踏みをするように少し丁寧に考えるという手順を踏まないと、自分とその人とのつながりにさえ思いが至らないことはいくらでもある。


 もう一つ問題がある。私たちが「足を踏んでいる」程度なら些細なことでもあり、些細なことだからこそ、率直に謝ることも許すことも、比較的簡単だろう。しかし、私たちのしでかしていることが大きく重たいことであればあるほど、それを認めることは愉快な話ではないし、後回しにしたり、酷い場合には気づかないフリをしたりさえする。

 つまり、わかりやすい話とは「私たちが気づきたくない何かには触れない話でもある」ということだ。一言で言えば、わかりやすさは、私たちの「自己欺瞞」を壊さないように配慮された話でもありうる。


 実際、こうした自己欺瞞をわかりやすく暴き立てたときには、「わかりやすい」と褒めてくれる人と同じかそれ以上にたくさんの人たちが非難や罵声を浴びせてくるものだ。

 別に、非難や罵声が、正しく自己欺瞞をついていることの証拠になるとは言わない。しかし、「わかりやすい」と言われるとき、一体何がどのように「わかりやすく」なっているのか、大抵の場合、それはそれほどわかりやすくはない。何かをきちんとわかるためには、足踏みするように自分で考えることをしないで済ませるわけにはいかない。最低限、そのことをわかっておく必要があるのではなかろうか。