モジモジ君のブログ。みたいな。

はてなダイアリーから引っ越してきました。

7月20日だから書いておきたいこと

 占領下パレスチナを題材にしたドキュメンタリー映画「プロミス」にて。映画の中で、イスラエルパレスチナの両方の少年たちが、一日一緒にサッカーをしたりして仲良く交流する。その後で感想を聴くシーンで。イスラエルの少年が交流を通じての和解の可能性を語っていたのに対して、パレスチナの少年は別の感想を抱く。「仲良くしたい。でも、仲良くしちゃいけない気がする」、文言は正確ではないが、パレスチナの少年はそのようなことを言った。


 当時、「イスラエルの少年は寛容だけど、パレスチナの少年の方がよくないね」と感想を言った人もあって驚いたけれど、もちろん、これはそんな話ではない。パレスチナイスラエルの間を隔てる検問所。分離壁イスラエルによってほとんど一方的に振るわれる暴力の数々*1。それらの非対称な関係をどちら側から見ているのか。それが少年たちの発する言葉の違いに現れているのだろう。問題は仲良くするかどうかではない。二つのコミュニティの間にある不正義、つまり、「イスラエルパレスチナを占領し、基本的人権を侵害し続けていること」、これを取り除くことができるかどうかなのだ。


 中には「そんなこと言わずに仲良くすることが、いずれ、不正義を取り除くことに役に立つこともあるだろう」と言う人があるかもしれない。そうかもしれない。しかし、考えてみてほしい。どれほど長く親しく仲良くしていても、一度意見の違いが露わになると、「そんなにこの国が嫌なら、自分の国に帰れ」と言われる。そんな出来事は掃いて捨てるほどある。仲良くすることは、不正義を取り除くどころか、隠蔽して温存し、むしろ延命させることに手を貸すことだってある。


 だから、もっと具体的に考える必要がある。仲良くするとして、「どのように仲良くすればよいのか」。仲良くすることが、いずれ、不正義を取り除くことに役に立つことがあるとすれば、それはどのようにしてだろうか。おそらく、私たちの間にある断絶について語ること、時にぶつかりあうことも含めて、あまり居心地のよくないコミュニケーションを続けること、「客観的な不正義の構造がある限り、仲良くなんてできない」、このことから目を反らさずに共通の話題にし続けるようなコミュニケーションの中にこそ、可能性があるのだろう。


 このように書くと「それって、そもそも仲良くしていると言えるような状態?」と疑問に思うかもしれない。僕もそう思う。しかし、あなたが実際に「仲良く」している人たちとの関係性を思い起こしてみればよいと思う。お互いの関係を損なうかもしれないようなクリティカルなことを話題にできること、裏返して言えば、そのようなクリティカルな話題を抑圧しないでいること、これこそが本当の意味で私たちの関係が「仲良く」あるのかどうかの試金石だろう。そして、関係性の中にある矛盾が大きければ大きいほど、「仲良く」あることは「とても仲が良いとは感じられないような緊張感に満ちた関係」に行き着く。むしろ、意味の判然としない「仲の良さ」よりも、二人の間にある問題に向き合う真摯さや誠実さといった観点で見た方が分かりやすいかもしれない。「仲良くする上で、そのような真摯さや誠実さはいらない」と真顔で言える人は少ないだろう。


 「イスラエルパレスチナを占領し、基本的人権を侵害し続けていること」、この不正義に向き合わない限り、パレスチナの少年とイスラエルの少年が仲良くすることなどできない。でも、そのことに気づいたきっかけは「仲良く」過ごしたその一日だった。ここには可能性がある。不可能性にくるまれながら、可能性が胚胎している。仲良くすることの意味は両義的だ。今日は、大阪で、反レイシズムを掲げて「仲良くしようぜパレード」が行われる。


 仲良くすることが両義的であるなら、仲良くしないことも両義的だ。「仲良くしようぜパレード」のコンセプトに対して重大な異議を提起している通称「反日デモ」が京都で行われる。二つのイベントが同じ日に行われることは意義深いことだと思う。なぜなら、不可能性を露わにすることは、可能性につながっているからだ。そして、それぞれのイベントの中で「仲良く」した上で、「仲良く」では乗り越えられない何かについて多くの人が関心を寄せてくれればいいなと思う。


 このことがそれぞれの腑に落ちるまでにはたくさんの考える時間が必要だろう。それでも、後でふりかえったときにこの日があるきっかけの一つだったのではないかと思い出されるような、今日がそのような日になることを祈っている。


※ 本題とははずれるが。今日という日にパレスチナのことを話題にしながら、目下進められているガザでの虐殺に触れないのはあまりに搾取的だろう。取ってつけたようで申し訳ないが、一言だけ触れておきたい。今回の攻撃にはあらゆる意味で正当性がなく、攻撃は即時停止されるべきだ。世界各国の政府は即時攻撃停止を要求するべきだ。
 あなたがイスラエルイスラエルの人々の友人であるならば、だからこそ、即時攻撃停止するようの助言するべきだ。なぜなら、この虐殺はパレスチナの人々だけでなく、イスラエルの人々の未来をこそ破壊する蛮行であるからだ。他者を殲滅することの先に未来を描くことはできない。このことは何年か前にも書いた。併せて読んでほしい。>「本気でイスラエルがかわいそうだと思うなら」

*1:マスメディアは未だに「暴力の応酬」と表現するが、その表現にカケラも同意しない。

新宿の焼身事件について

 今日、新宿駅で、安倍政権による集団的自衛権容認への動きに抗議して、男性が焼身自殺を図ったという。その後、亡くなったという話は聞いていない。とにかく命をとりとめたなら、そのことは良かった。


「焼身自殺(未遂)」という行為を、持ち上げることも貶めることもしたくない。自分もやりたいと思わないし、他の誰にも真似してほしいとも思わない。しかし、少なくとも言えること、言わなければならないことがいくつかあると思う。

 当たり前のことだが、男性が「身を焼いた」ことは、男性の主張が正しいことをまったく意味しない。関係がない。しかし、私たちは重々承知しているはずだ。安倍が進めている集団的自衛権容認への手続きは、ありとあらゆる嘘とゴマカシに満ちており、今すぐやめるべきだということを*1。つまり、男性が身を焼いた事実とは無関係に、男性の安倍政権への批判は、正しい。

 にもかかわらず、この正しさ=安倍政権の欺瞞をめぐる状況は、不条理に満ちている。安倍は振付師の言いつけどおりの答弁に終始し、聞かれた質問には答えない。国会や記者会見でのやり取りを見ていると、あまりの不条理に眩暈がする思いだ。言葉が言葉として通じない。そんな世界に私たちは生きている。私たちは、まさしく「身を焼かれるような不条理の中に」生きている。

 つまりは、彼を焼いたのは彼自身ではない。この不条理そのものを現出させている安倍その人であり、安倍政権を支えている有象無象が、彼を焼いたのである。これが「言えること」の第一である。


「身を焼くこと」、それ自体に報道すべき重要性があるのかは判断の分かれるところだろう。しかし、私たちは重々承知しているはずだ。私たちが「身を焼かれるような不条理の中に」生きており、男性の抗議の主張には少なくとも「報道すべき」と言える程度には正当性があり、メディアにはそれを伝える責任があることを。念を押しておくけれどが、「彼が身を焼いてまで訴えたから報道すべきだ」というのではない。そもそも、彼が身を焼いてまで訴えたかった主張は、彼が身を焼くまでもなく、大手のメディアで大々的に主張されていてもおかしくないことであったはずだ。これを黙殺するのであれば、メディアは、二度、彼の身を焼くのである。これが「言わねばならないこと」の第一である*2


 最後に、これは書かずに済ませようと思ったことだが、やはり、書いておくべきだろう。「集団的自衛権容認への動きに抗議して、男性が焼身自殺を図った」という知らせを聞いたとき、「死なないでくれ」と思ったことに嘘はない。しかし、「この事件を受けて、流れが変わってくれれば」との思いを抱かなかったと言えば嘘になる。我ながら「人の命をなんだと思っているのか」と思う。嫌な気分になる。

 しかし、おそらくは、身を焼いてまで訴えたその人の思いは、ここにあったはずである。自らの命をもって、流れが変わってくれれば、そう願ったのだろうと想像する。彼の主張の正しさも、取り上げるべき価値も、彼が身を焼いたこととは何の関係もない。しかし、私たちは重々承知のはずである。安倍政権集団的自衛権容認への動きはまちがっているし、断念されるべきであると。身を焼いた彼の人の主張は正しく、受け入れるべきだということを。この当たり前のことが、当たり前にならない。この不条理を止めることができなかった私たちが、彼の身を焼いたのだと、考えずにはいられない。


「誰かが身を焼いたからといって政策を変えたら、同じことをする奴が次々出てくる」などと、バカげたことを言う人がある。一体、どこに、わざわざ身を焼きたくて焼くバカがいるだろうか。「同じことをする奴が出てこない方がいい」と思うなら、不条理をなくせばいいだけの話である。「集団的自衛権容認など即刻やめるべき」ということは、本来、誰かが身を焼いたりする前にわかっているべきことだ。

 身を焼く前にわかっているべきことであるなら、せめて、身を焼いた後であっても、骨身にしみてわかっているべきだろう。「同じことをする奴が出ないように」などと命を大事にする素振りで、身を焼いたその人の思いも何もかをも踏みにじるのだろうか。それは三度彼を焼くことに他ならないのではなかろうか。

*1:具体的にどのような嘘とゴマカシであるかについては、数多指摘があるので繰り返さない。『世界2014年7月号』所収の想田和弘「喜劇のような演説が現実となるとき──安倍首相「集団的自衛権」記者会見を読み解く」に詳しく分析されているので、そちらを参照してみてほしい。

*2:わかりにくいかもしれないので念を押しておく。仮に焼身事件そのものは報道しないとしても、彼が身を焼いてまで訴えたことについて報道すべきことがあるだろう、ということ。彼が身を焼いてまで訴えたことが正しいということは、彼が身を焼くまでもなく私たちは知っていたはずだろうから。

都議会差別野次事件について

 塩村都議の過去のテレビ出演歴や発言が取りざたされている。そもそも、このタイミングでそれらの事実について論評することすらはばかられる。言うまでもなくそれは犠牲者非難=二次加害に他ならないから。

 それは前提として、それでも塩村都議の過去を問題にするのであれば、女性性を徹底的に商品化する社会の性差別性と切り離して語ることなどできはしない。そのような構図を生み出しているのは、まさに件の野次を容認している社会そのものだということに気づかないわけがない。

 また、過去を問題にするなら、同時に現在をも考慮に入れるべきだ。差別野次を投げつけられた質問で塩村都議が取り上げたのは、喫煙問題であり、動物の殺処分問題であり、女性問題だ。これらを正面から取り上げてきちんと報じることこそ、政治と関係のない過去の発言を取り上げるよりはるかに優先されるべきことだろう。

 ほんの少しだけ週刊誌に同情するとすれば、これらメディアもまた、この社会の差別構造の産物に他ならないと言う点にあるだろうか。

 でも、それならば、せめて塩村氏程度には、筋を通したらどうか。彼女は、少なくとも、都議になったからには都議としての筋を通す、つまり、きちんと一般質問等の議員活動を行い、差別発言は不問にしない、そういう筋を通している。彼女の現在の仕事を報じる程度の筋も通せないなら、そんな週刊誌に彼女を非難する資格はない。

 それにつけても、まだ名乗り出ていない都議連中の矮小なこと。塩村氏は過去のテレビ出演において、少なくとも顔を出して堂々と発言し、それをよしとしない人からの批判も非難も受けている。今だに逃げ回っている覆面都議とは、その点一つをとっても雲泥の差ではないか。

『美味しんぼ』問題で明らかになったこと

美味しんぼ」が明らかにした論点は、鼻血が科学的にどのような意味を持つかという点だけではない。


 行政が、自覚症状の訴えに関する系統的な調査をまったくしていないこと。そもそも、がれき焼却にせよ低線量被曝にせよ、危険性を明らかにするような調査は原理的に困難であること。そのことを承知の上で、がれき焼却を強行し、除染の効果を検証もせず、性急に汚染地域への帰還を推し進め、汚染食材の流通を野放しにする等していること。これらの重大事項が、「美味しんぼ」で紹介されている大阪の母親たちの聞き取り調査の方法論に関する科学的な批判と同列に並べて良いものかどうか、真剣に考えるべきだ。

 僕は大阪のあの調査を根拠として何か科学的な主張をするつもりは、少なくとも当面はまったくないけれど、しかし、あの調査の不十分さを批判する資格のある人間は、少なくともこの日本にはいない、このことは断言する。仮に批判をするならば、その数百倍の手間をかけて政府を批判する責任が生じるはずだ。


 そして、そもそも、僕の記憶が確かなら、あの調査は「直接的に放射能の危険性を証明するものとして」というよりは、「行政の責任によって科学的に適切な調査をするように求めるための根拠として」提示されてもいたはずだ。つまり、ちゃんとした調査が難しいことは、調査に関わった母親たちの大半は承知している。

 この要請について真面目に考えたら、有効な調査は行政にとっても困難なことは明らかだろう。で、それならば、なぜ焼却を強行したのか、という問題になるはずだ。大阪の母親たちの調査が直接に被害の証拠と結びつかないことのみをもって全否定する態度は、それ自体、非科学的ですらある。つまり、あの調査は、科学的な「答え」をもたらすものではないとしても、科学的な「問い」をもたらすものではある。


 そして、科学的な主張を言うなら、大阪府市の言う「安全性に問題はない」には「国の基準の範囲内だから」というトートロジカルな根拠しかなく、その意味でまったく非科学的であるのも明らかだろう。


 この問題は、断じて「どっちもどっち」ではない。科学の悪用ないし誤用の問題。そして「御用」の問題。